KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

ウポポイ、行ってきた

この度、やっとのことで北海道白老町にある民族共生象徴空間ウポポイに行ってまいりました。

開館以来、ずっと行きたい行きたいと思っていましたが、やはりコロナが足かせとなって行けずにいたのですが。まん防解禁に合わせて、日帰りでの白老訪問です。

札幌から白老まで特急で約1時間半。私は特急内では読書できますので(バスは酔うので読めない…)本当にあっという間です。

そして白老駅からウポポイまで徒歩15程度でしょうか。札幌からでも新千歳からでも想像以上にアクセス良しです。

駅からウポポイへの道の途中、松浦武四郎の石碑がありました。「民族共生の人」とあります。松浦武四郎は北海道を命名した人物でもあり、2018年は北海道命名150年として記念事業が行われ、その際松浦武四郎が大きく取り上げられました。

武四郎は命名者であるだけでなく、民族共生思想の持ち主もありました。150年後の今、まさに武四郎の思想が求められる時代になったということですね。

過去の思想や文化を古臭いものとして追いやらず、大切に受け継ぎ、今の時代に活かすことの重要さを感じます。

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松浦武四郎

さて、ウポポイですがとても広いです。博物館がメインの建物でしょうけれども、アイヌの生活空間を再現したコタン(村)やポロト湖、そしてウポポイを取り巻く環境全体が展示に含まれていると感じます。

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ウポポイ入場口

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構内マップ

構内の奥に行くと茅葺きの建物の内部でアイヌ舞踊の公演や文化体験などが常時行われています。ライブ感のある文化展示ということですね。スタッフのかたがアイヌ文様のジャケット?を来ていて、なんともかわいらしいです。

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博物館も大変立派なものです。

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博物館外観

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展示内部(写真のみ撮影可)

コロナ対策のため観覧は予約制、一応1時間で入れ替えという制限があるようです。私は2時間位おりましたが、特にお咎めもなくゆっくり見ることができました。

展示は開放的で、個室に分かれず、室内を自由な順番で見て回ることができるようになっています。テーマは服飾、食、工芸、文学、生活、北方民族の歴史とアイヌ、道具類などなど、多岐に渡ります。

アイヌの展示では、しばしば倭人からの収奪、圧政、差別などが強調されがちですが、ウポポイではそれは控えめと思いました。

過酷な歴史的現実から目を背けてはなりませんし、過去のことと割り切ることはできないアイヌの方々も大勢いるのも事実です。

その一方で日本という国の中の一つの民族的文化として受け継がれ存在している、日本の中で共存していることを伝える、未来志向の展示には好感を持ちました。

少し砕けた言い方をするならば、アイヌ民族アイヌ文化はカッコイイ、と感じるのです。

私はこれまで柳宗悦研究を通じて、日本と韓国との文化交流にも関心を持って研究してきました。そこでも確かに歴史的な問題は看過することはできないし、わだかまりを持っている人もいます。
でも、お互いの文化を尊重する気持ち(つまり、カッコイイ、クールだと思える気持ち)によって、難しいわだかまりを一気に飛び越えていってしまう交流のあり方を幾度も見てきました。
文化で問題が解決しますよ、などという気は全くありませんが、前進するための大きな一歩になることは確実です。

その意味で、好感を持った、ということです。

今回はまだ雪の残るウポポイでした。春になって緑が芽吹いたら、夏になって緑が深まったら、秋になって葉が色を変えたら、その都度ウポポイは美しい姿を見せてくれると思います。

何度も行って展示を見疲れたら、ぼんやりポトロ湖を眺めれば、癒やされさそうだな〜という空間でした。

おすすめです。

(今回はどういうわけか、文章が敬体(ですます体)でしたね。)

新潟紀行(3)ー塩沢

新潟紀行も3つ目の記事である。

前回は出雲崎での見聞を書き綴った。その後柏崎でこの所集中的に研究対象としている人物、吉田正太郎についてのリサーチを行った。これについては論文に書く内容なので、省略する。

その後、柏崎から新潟に戻る途中、一日つかって南魚沼市塩沢を訪問することにした。ここもかねがね一度は訪れなければならない場所の一つであった。なぜなら柳宗悦が新潟の民藝の一つとして高く評価した越後上布や塩沢縮の産地だからである。

こういった民藝品は、農閑期の副業として農民が地道に作り続けてきたものが一般的だ。
高い評価や高度な技術とは裏腹にその制作の現場は本当に地道な作業の連続だ。作り手が得られる収入としてもそう大きなものではなく、一家の家計を支えるために必要最小限のものであった。この地域では機織りができるかどうかが嫁選びの条件だったという。

作られた上布や縮は、江戸期は陸路柏崎まで一旦運ばれた。縮布屋に一旦買い集められ、それが行商人によって関西方面まで流通していたという。北前船も流通に一役買っていただろう。
農家の人々の多くの手間、時間がかかってやっと織り上げられた布。それが購買者の手元に届くまでに多くの人の手を渡り、労賃もかかる。
購買者には高級品であっても生産者に渡るお金は僅かであったのだろう。柳がイメージする民藝の作り手を彷彿とさせる。
柏崎は縮布屋の街という側面も併せ持つ。その生業によって旦那衆と呼ばれる程の富裕層も現れた。柳と信仰を結んだ吉田正太郎もその一人だった。

そういう産業構造の中で伝統工芸は生み出されてきたし、その構造が近代になって崩れていくと工芸は岐路に立たされることになる。
ある伝統工芸は廃れ隠滅し、一方である伝統工芸は無形文化財として保護される。

越後上布や塩沢縮は後者である。
1955年に重要無形文化財に指定され、2009年にはユネスコ世界無形文化遺産に登録された。

ところで塩沢といえば鈴木牧之『北越雪譜』の世界だ。

雪深い越後の風物を江戸に知らしめた幕末のベストセラー。塩沢の街のメインストリートは「牧之通り」と銘打ってその雰囲気を再現している。

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牧之通り

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牧之通り

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牧之通り

新しく整備された通りとはいえ、その地域の歴史や文化をイメージさせる景観の中をぶらつくのはそれはそれでテーマパークのようで楽しい。
残念ながら季節外れなのと、コロナとで閑散としていたが、平時は国内外からの観光客でごった返すという。
外国人観光客には特に楽しい通りかもしれない。

牧之通りから少し入ったところに「鈴木牧之記念館」がある。
鈴木牧之の生涯や『北越雪譜』などの著作で描かれた越後塩沢についての解説が充実している。

2階の越後上布、塩沢紬の制作過程を示した展示は特に興味深く、しばらく見ていた。
数十におよぶ作業工程と道具類。機織りは現代人には気の遠くなるような作業だ。
その作業を人な何故し続けることができるのだろうかといつも不思議に思う。
寒さを凌ぐためであれば他の素材を探し求めそうなものだ。毛皮とか。
なぜ人は機を織るという選択をしたのだろうか。素朴な疑問。

ところで話を戻して『北越雪譜』。

北越雪譜』を眺めているとイラストがとてもおもしろいことに気づく。
版本であるのになぜあのような細かなイラストを再現できたのか不思議でもあり、感動もするのだが、そのイラスト中に「雪男」がある。
猿に似た毛むくじゃらの「異獣」ということになっているが、今越後塩沢の地酒蔵元青木酒造では、この雪男ブランドのお酒を製造販売している。

そのラベルがこれ。

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なんか、かわいいぞ

 

伝説では、山中で遭遇した村人が、その時食べていた握り飯をその異獣が欲しそうにしていたので、あげた所、嬉しそうに頬張り、お礼にその荷物を持ってくれたという。

 

とてもいいやつだな

握り飯一つで。

 

その雪男に会いに、やはり(当然)青木酒造の直売店を訪ねた。
売店は牧之通りにある。

 

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青木酒造

店内は老舗の雰囲気。番台がある。

展示は当然青木酒造の商品のみ。もともと銘柄は多くはない。
4種類程度の銘柄を並べている。
が、面白いのはグッズがバラエティに富んでいることだ。

雪男グッズが特に充実しているような気がする。おそらく人気があるのだろう。

最近の雪男は荷物ではなく、スキーやスノボも持っている。

雪国の酒「雪男」 |雪男-青木酒造株式会社

青木酒造 雪男のステッカー(雪男×ATOMIC)|新潟の地酒 たいせいや

いろいろなグッズも売っていて楽しい。

プレゼント ギフト 日本酒 鶴齢 雪男セット(A) 新潟県 青木酒造 :st-008:新潟の地酒 たいせいや - 通販 - Yahoo!ショッピング

 

私も思わず、雪男の徳利を所望した。

徳利 雪男 0.8合(小) 青木酒造 日本酒 新潟県 :go-107:新潟の地酒 たいせいや - 通販 - Yahoo!ショッピング

 

念の為説明をしておくと、青木酒造のメインブランドは『鶴齢』である。

今、『鶴齢』と雪男徳利で一杯やりつつ新潟酒処を思い出す。

越後上布や塩沢縮と民藝面で大変興味深い地域であるが、

やはり最後はお酒の話でこの旅を締めることになった。

(新潟紀行・完)

 

 

新潟紀行(2)ー出雲崎

新潟市から海岸線を南下すると出雲崎という古い町に至る。

出雲崎町の人口は4,000人程度。日本海側の静かで小さな港町といった風情だが、歴史的にも文化的にも重要な地域である。

今となっては、北陸自動車道上越新幹線信越本線出雲崎は通過せず。
JR越後線が走るばかりだが、それとて沿岸地域には駅からは距離がある。
アクセスには国道352号を海岸線に沿ってうねうねと走ることになる。行きやすいところとは言えない。

これまで新潟は三度訪問していたのだが、訪問は叶わなかった。
そこで今回の出張ではレンタカーを借りて新潟から柏崎に向かうことにし、かねてより訪問を願っていた出雲崎に立ち寄った。

 

出雲崎は江戸期天領であった。佐渡で産出される金の積み下ろし港であったからである。

出雲崎に降ろされた金は北国街道を通り、柏崎、長野、上田、小諸と経由して江戸まで運ばれた。北国街道沿いは、妻入り家屋が立ち並び、長岡藩という強力な藩をとなりにしながら、それ以上の繁栄をしていたといわれる。

旧街道は当然道幅も人や馬サイズだから、現代の自動車道には適さない。すでに街並みが出来上がっている集落の場合、海岸沿いを固めて自動車道が走る。したがって旧街道は国道の一本内側の生活道路となる。

その旧街道は、妻入り家屋の町並みとして古い風情の今に残している。その様子については、以下の出雲崎町公式サイトに美しい写真が紹介されている。ぜひ参照してみてほしい。

https://www.town.izumozaki.niigata.jp/kanko/spot/tsumari.html

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出雲崎・旧北国街道

旧街道沿いに「出雲崎寄港地の町家」という一般公開されている妻入りの古民家がある。ひとまず見学。中を見せてもらった。

入り口正面の間口は狭いが、奥に長い。京都の町家を思い出す。二階や明かり取りやさまざまな生活の工夫がある。北前船の寄港地の一つでもあったから、豪商も多い。

ボランティアガイドのおじいさんにもしばらく話を聞いた。

途中自分が北海道からやってきたことを告げると、途端に親近感を示してくれた。
北陸越後にはそういう方が多い。
北前船がつないできた北海道との縁は今でも根強く残っていることを思う。

おじいさんの話し方や人となりは、なぜか親戚のおじさんを思い出させた。
雰囲気が北海道の道南に近いように感じ、道南出身の自分もまた親近感を覚える。あるいはそういう気分になっているだけかもしれないが。

ひとしきり北海道と出雲崎の繋がりについてのお話を伺い、また出雲崎の歴史の話を伺い、大変勉強になった。

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妻入り家屋・出雲崎寄港地の町家

 


出雲崎良寛の生まれ故郷としても名高い。その後、良寛記念館にも立ち寄る。小高い丘のうえにある、静かで落ち着く建物だ。公園からは出雲崎の町を一望できる。夕陽が綺麗だという。

ただ夕陽を待っている時間はない。というのも、出雲崎ではもう一つの目的地があったからだ。

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良寛記念館

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良寛記念館より出雲崎港を一望


出雲崎でもう一箇所訪問したい場所、それは街の小さな古書店『蔵と書』さんである。

このお店は地域おこし協力隊として出雲崎に赴任した石坂優さんという方が、本屋のない街に本と人の出会いの場を作りたいという思いで作った書店+ギャラリーだ。
妻入り造りの古民家(もとは薬屋の倉庫だったとか)をリノベーションして一階を子供向け絵本中心の古書店に、二階をギャラリースペースとして開店したのだそう。

古民家に古書店、ギャラリーとは全く似つかわしい組み合わせだ。
本当にゆったり落ち着いた空間で、自由に本を読んだり、ギャラリーでは写真やイラストを眺めたりできる。
(お店のいい雰囲気はネットで検索してみてほしい。自分では敢えて写真を撮っていない。雰囲気の良い店内では、あまり写真を撮らない主義だから)

人口のそう多くないエリアで人が来るのだろうかと思っていると、その後子供連れの親子など続々やってきて、予想以上ににぎやかだ。地域の人々の集まる交流の場になっているようだ。

バッグやブックマークなどのオリジナルグッズを物色していると、本のタイトルを隠して、文章の一節のみを紹介するいわゆる”目隠し文庫”があった。こういう本との出会い方はとても楽しい。
もちろん私も一冊記念に選んでみたのだが、石坂さんいわく、「意外とやわらかいのを選びましたね」( ̄ー ̄)ニヤリ。
気になりつつも、購入。こういうのは宿に帰ってからのお楽しみにして開けずにおく。

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目隠し文庫

少しお店の話などを聞きながら楽しく過ごし、帰り際に新潟のおすすめのお酒についてたずねた。途中で買ってホテルで飲みながら、今購入した本でも読もうという魂胆である。

石坂さんはお酒は飲まないというが、お店にいた女性のお客さんに聞いてくれた。その女性は外の車で待っている夫がお酒好きなので、おそらくいろいろ教えてくれるだろうということでわざわざ電話で呼び出してくれた。ただの酒好きの話にここまで親身になってくれることに恐縮しつつ、嬉しい気持ちで、ご主人に会う。

「新潟の全国流通している一般的な酒ではなく、地元ならではの銘酒があったら教えてほしい」と図々しく聞くと、大変ご親切にも「超辛口大吟醸無濾過生原酒 景虎」他様々な銘柄を教えてくれた。私の知らないお酒である。(私はお酒は好きだが詳しいわけではない)
重ね重ねお礼を述べつつお店を辞し、早速柏崎へ向かい酒屋さんで探してみると、ちょうどおすすめされた「景虎」を発見。入荷されたばかりの限定商品とのこと。酒店の方によると、それほど簡単には入手できないもののよう。たいへんラッキーである。

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超辛口大吟醸無濾過生原酒 景虎

こういう人や本との出会いの場がとにかく好きで、出張先で時間があると(あるいはなくても理由をつけて)、古書店やブックカフェ、ギャラリーなどを巡って旅の思い出にしている。
今回も「蔵と書」さんにお邪魔して石坂さんだけではなく、他の地元の方とも思わぬ交流ができた。
全国各地、地方に行くと大抵はこういうホスピタリティ豊かな方々に出会える。
これが旅の魅力だ。

 

宿に帰り「景虎」を飲む準備をしながら、目隠し文庫を恐る恐る開けてみた。出てきたのは、なんと!吉本ばなな『白河夜船』。
なるほど、( ̄ー ̄)ニヤリの意味がなんとなくわかった。

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目隠し文庫から出てきたのは『白河夜船』

吉本ばななは『キッチン』くらいは読んでいるが、普段はまったく守備範囲外の作家だ。ある意味避けて通って来たかもしれない。
しかし、本とのこういう出会いも悪くない。いや、こうなると開き直って出会うしかない。出会ってみてやろうという気にもなる。そして、出会ってみると、人と同じで良いところが見えてくるものだ。

めぐり合わせに感謝して、景虎をやりつつ、吉本ばななを読んだ。

 

新潟紀行(1)ー新潟

久しぶりの研究出張で道外に来ている。新潟県である。
昨年は、コロナの波の谷間を縫って、東京に1回行ったきりでほぼ出張はなし。
研究に関する資料はある程度ネットを通してなんとかしてきたけれども、どうしても現地で見なければならない資料がある。今準備中の論文を完成させるためには仕方がないのだから、なんとか都合をつけて出てきた。感染予防は可能な限り十分にして。現地で飲み歩いたりしないようにする。

自分のモットーは、出口治明先生の言葉をお借りして「人・本・旅」としている。
「本」は読んでいる。「人」は今は極力我慢せざるを得まい。だから「旅」はどうか許して欲しい。という心境だ。

旅に出るとやはり脳が活性化される。ずっと色々なことを考え、整理しなおされ、新しい疑問が湧き立っている。

これから、旅をしながら思ったことを少しつらつらと書いてみたいと思う。

今回の旅行の目的も、もちろん柳宗悦や民藝に関連する調査である。

新潟県はかなり柳宗悦ゆかりの地である。
特に今回お邪魔する柏崎市は柳の運動を地方からバックアップした吉田正太郎という重要人物の地元だ。いわゆる旦那衆と呼ばれるような人たちで、財力も人脈もあり、かつ趣味人でもある。柳のさまざまな活動、文化事業に理解を示して支援したし、逆に柳に新たな情報やインスピレーションを与えている。

前回柏崎にお邪魔した際は、そのご遺族の方にもお会いしてお話しを伺ったのだけれども、今回は状況を鑑みてメールで訪柏のご連絡だけして、面会は遠慮した。万が一のことがあってはいけないので。

さて、新潟と民藝の関係についてもいろいろ考えるところがあるが、その前に、実は最近北前船について勉強しており、そのことについても書いてみたい。

北前船日本海沿岸と瀬戸内関西の間を、物も、人も、文化も結びつけたいわば江戸・明治の廻船である。北海道人である私としては自分のルーツや文化を考える上で、関心を持たないわけにはいかない。私の故郷は函館だし、さらに父方の実家は松前である。高田屋嘉兵衛は函館ではレジェンド扱いだ。

北前船の勉強は、江戸から明治にかけての地方間の文化交流という点で面白いが、それを千石船(弁財船)で危険をかえりみず果敢に取引した200年から150年も昔の人々を想像すると結構ドラマだと思う。そこも惹かれるポイントだ。

北海道で仕入れたニシン糟が本州で何倍にも売れた時の船主の喜びはどれほどだったろうか。嵐にあって船もろとも財産を失ったときの落胆は。あるいは命だけは助かったことを神仏に心底感謝しただろうか。仲間や家族を失った者の悲しみは。小説化も少しはされている。探して読んでみたい。

また北前船の栄枯盛衰を知ると、日本海という経済圏、北陸や新潟、東北の文化圏がどのようにして今の形になったのかが見えてくる。

北前船の全盛期は幕末から明治前半であったが、それは日本の近代化によってやがて凋落する。日清日露戦争を経て、太平洋側を中心に鉄道網が広がり工業化が進む。電信技術によって産品の地域価格差が縮まる。西洋式帆船や汽船が導入される。太平洋側を中心に工業が発展する。そういう時代の変化は北前船の競争力を急速に奪っていった。それが明治30年ころのことだ。

北前船はこの時期に姿を消す。禁止令が出たという話も聞いたが勉強不足で定かなところはまだ知らない。日露戦争時は、北前船船主は政府に船を供出したというし、また撃沈された船もあったという。そういった外交的な理由で日本海が安全な海域でなくなったのかもしれないが、それ以上に、やはり先に述べた通り、太平洋側に対して競争力がなくなったということなのだろう。

船主は、力のあるものは北洋漁業海上輸送業、地主として農場経営に乗り出し、力のないものは没落していった。

北前船の凋落と時を同じくして、日本は太平洋側の発展する「表日本」と、表を支える(いや、表から搾取される)「裏日本」という経済産業構造へと転換する。北陸、新潟の近代は社会基盤や教育が表日本から20年遅れで、食糧やエネルギー、人材の供給基地としての役割を押し付けられてきた。

今でも、東京ー名古屋にリニアモーターカーが開通するという時代に、北陸はいまだに新幹線が延伸途上である。山陰に至っては着工すらしていない。

北前船に関心をもっていろいろな本を読み漁っていると、こんなことが見えてくる。

この辺のところは北前船関連の研究書を読んだりして知った。

その中でも手軽に読めるのはやはり新書である。
すでに品切れであるが、北前船の街加賀市出身の小説家高田宏の『日本海繁盛記』(岩波新書、1992)は読みやすい。小説のようにドラマチックな描写がよい。

また今回の旅のお供本は、

である。これは裏日本というレッテルがいかにして生み出されてきたかを、少し怒りを込めて書かれている。

裏日本はすでに死語だが、観念自体は死んでいない。実態としては新幹線の事例のようにそこかしこに残存している。

その一方で加賀百万石という言葉があるとおり、江戸期まで北陸、山陰、越後には中央にも負けない文化もあれば、経済力もあった。近代化の過程でその力関係は変容し、裏日本としてのアイデンティティをおびて現在に至るのだ。

さて、柳宗悦新潟県と関係を持つようになるのは1920年代前半である。柳宗悦の盟友、陶芸家の富本憲吉のパトロンであった糸魚川(鬼舞)の伊藤助右衛門との交友がその最初のことと見られる。伊藤助右衛門とは非常に有力な北前船船主の一人である。

ただし先に述べた通り、柳が伊藤と知り合った時は北前船の時代はすでに終焉を迎えていた。とはいえ伊藤は当地の大地主になっており、富本憲吉含め芸術家を支援するだけの勢力を持っていたようだ。

柳宗悦の有名な一文「失われんとする一朝鮮建築のために」は、日本海に面した伊藤家に滞在中のある朝、朝鮮半島の方角を眺めながら一気呵成に書き上げたものだと伝えられている。

柳に柏崎の吉田正太郎を柳に紹介したのはこの伊藤助右衛門だったようである。伊藤と吉田は実は同級生だったのだ。(実はこの辺の事情も今回の調査項目である)

要するにこの地の旦那衆は、地方の文化人として、中央の芸術家や文化人を支援するだけの勢力は維持していたということである。柳宗悦だけではない。吉田正太郎ら柏崎の旦那衆は北大路魯山人会津八一、堀口大学川上澄生らとも交流、支援をしている。

柳等が見出した民藝は、この手の近代化から取り残された地の産品が多い。そして地方の民藝の発見を支援したのは地元の人々だ。柳にとっては近代から取り残されていく所にこそ近代が失いつつある真の工芸があったのだろうし、地方の人々にとっては地域の価値を見出し、中央へ紹介してくれる存在が柳であっただろう。


ところで、柳と地方文化人らの結び付きには、実は鉄道の存在が大きく作用している。柳の主な移動手段は鉄道だった。鉄道網は明治末から大正期に急速に拡大している。柳の新潟への旅も開通まもない鉄道を用いている。当時柳は京都に居住していた。明治末期に敦賀、福井、金沢、富山と延伸を続ける北陸本線は、やがて大正期にいたって糸魚川直江津、柏崎と接続するようになった。柳の行動範囲は鉄道網と密接に関係している側面がある。

民藝は一面前近代を志向する思想運動であるが、その運動は近代化によって実現した側面もある。

 

(余談)今回の研究旅行で、新千歳空港から新潟空港へ飛行機で移動した。幸い上空から地上を見下ろすことができた。日本海が眼下に広がる。200年〜150年ほど前、何百艘という北前船がこの海を行き来していたのだろう。

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眼下に広がる日本海

 

民藝と家庭料理:土井善晴という思想家について

ーー家庭料理は民藝である。
  料理研究家土井善晴氏(以下敬称略)の言葉である。

 

そして、土井の近著で今話題となっているのが、『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫、2021年)。ただこの本はいわゆる“料理本”ではない。まぎれもない思想の書だ。

 

民藝とは民衆的工藝の略語である。
料理は工藝ではないから厳密には民藝に含めて考えることはないが、ただ、手仕事、日常、民衆、多産、廉価といったキーワードを共有するという意味で民藝に近い。また家庭料理が供される時に用いられる器こそ本来民藝とみなされるものだ。
その意味で、家庭料理と民藝は親和性が非常に高い。

まずは本文の言葉を引きたい。

一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。

土井は家庭料理の基本は一汁一菜であるという。一汁一菜とは、ご飯、味噌汁、そして香の物の3つで構成される食事。古来庶民の食事は一汁一菜であった。おかず(副菜)が複数供されるのは最近になってのこと。近代栄養学では副菜が含まれる食事をモデルとしているが、味噌汁を具沢山にすることで、十分日々の栄養はおぎなえる。

土井の家庭料理論では、日常的に食される家庭料理では、てまひまをかけず、ある意味手抜きをして構わないという。毎日複数のおかずを用意するのは負担だ。それが料理から人を遠ざける。だが、一汁一菜という伝統的な食事であればそう手間にはならず、負担は少ない。
てまひまをかけるべきはハレの料理であり、それはそれで日本の伝統において重要な文化である。ただ、ケの料理である家庭料理にまでそのてまひまを持ち込む必要はない。

逆にてまをかけなくても、日本の風土が生み出した自然の素材はそのままで十分に美味しく滋養がある。なのに、おかずを用意するために無理をしたり、コンビニや惣菜屋で買ってきたもので体裁を整えるようなことは逆に正しい食生活とはいえない。一汁一菜というシンプルな形での食事を毎日行うことが家庭料理の美である。
おおむねこのような思想だ。

要は、決して派手ではなく、無理もしない地味で何の変わり映えもしない日常生活を丁寧にしようという思想が基調となっているのだが、この思想は柳宗悦民藝運動のそれと全く共通のものだと言って良い。

ところで、一方の民藝の方も、何かというと伝統的な民陶の素朴な美をめでたり、枯淡な工芸品をセンス良く日常生活に取り入れて愛玩したりするイメージがつきまとう。

だが、これも勘違いである。
戦後、民藝派内部でも一部の人々がそのようなディレッタンティズムに走り、民藝運動もいっとき混乱をした。柳の盟友である英文学者、寿岳文章でさえ、それを嫌って民藝運動から離反している。

そして、同じ意味で、今なお民藝はディレッタンティズム的な受け止められ方は無くなってはいないだろう。

だが、個々の民藝品を愛で、良し悪しをうんぬんするのは柳の考えた民藝のふるまいではない。まして、センスを競い合うようなことがあるとすれば、それは全く民藝の趣旨に反している。

例えば柳は『陶磁器の美』の中で、次のように述べている。

吾々の日々の生活が如何にそれ等のものゝ匿れた美によって知らず知らず温められてゐるかを知らなければならぬ。今日の人々は喧しい蕪雑な此の世の生活のうちに、それ等のものを顧る余裕を愛しないかしら。私はかゝる余裕を貴い時間の一部であるといつも考へてゐる。かゝる余裕を富の力に帰してはいけない。真の余裕は心が産むのである。富は美の心までを作りはしない。美の心こそ吾々の生活を豊かにするのである。

我々の日常生活は、なんでもない日常的な民藝の美によって知らない間に温められているものだ。つまりあえて民藝を用いて生活を美しく飾らなくても、正しい生活をしていれば知らず知らずのうちに美しくなっているものなのである。それを顧みる余裕が欲しいのだが、それは富(お金)で買えるものではない。本当の余裕とは民藝の美しさを理解する”時間”をもつことであり、それを理解する心によって生活の豊かさはもたらされるものだ。柳はそう説く。

柳の思想の根底には、日常生活への倫理の眼差しが存在している。そこにはディレッタンティズムやセンスを求める心の動きはない。むしろそこから離れた心の余裕が求められている。日常生活を丁寧に送るという道徳や倫理が流れているのである。

もう一度土井善晴に戻ろう。

土井善晴の家庭料理に見る思想は、まさしく民藝運動の原点を彷彿させる。

土井は中島岳志との対談集『料理と利他』において、民藝運動の中心人物の一人河井寛次郎の記念館を見てインスピレーションを得たと語っている。土井善晴の思想に民藝が一つの影響を与えていることがわかる。

土井の家庭料理論は、柳の民藝論同様に、一つ一つの料理の出来栄えよりも、その背景にある生活のあり方に主眼がある。
SNSにアップして「いいね」を期待するような小洒落た料理を目指す姿勢とは真反対。むしろ忙しい毎日の中でもひたむきに作られる名もなき一汁一菜という家庭料理に目を向ける。まさに民藝だ。

もう一箇所、土井の文章を引用する。

若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。(中略)家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親が自分の作る料理について「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。

要は柳も土井も共に、日常生活の中の無意識、無為の美に注目している。作為的な美や美味しさではなく、無為の日常生活の中にこそ美が宿る。柳は工藝を通して、土井善晴は料理を通して、そのような日常性を人々に提案しているのである。

2021年から2022年にかけて、東京近代美術館において「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展が開催された。テレビやネットでも多く特集や紹介記事が組まれている。100年を経過して改めて民藝思想が再注目されているようだ。

スローフード、地方移住、ミニマリズムエシカル消費働き方改革ワークライフバランス、ワークインライフ…こういった生活の仕方についてのキーワードが浮上しているが、生活倫理への関心が背景にあるのだろうし、民藝が再注目を浴び家庭料理を民藝と捉える土井善晴の著書がベストセラーになることと、このことは無関係ではない。
今なお、あるいは今こそ民藝的思想が社会から求めている、ということなのだろう。

 

哲学の有用性の切実さについて(読後感想)

この週末、新刊新書2冊を読んだ。

 1冊目は高桑和巳『哲学で抵抗する』集英社新書

 2冊目は川瀬和也『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』光文社新書

いずれも気鋭の研究者による哲学に関する考察である。

 

高桑氏によるものは、カントやヘーゲルなどのいわゆる哲学史に登場するような哲学は扱わない。扱うのは、アイヌ文化研究者の萱野茂公民権運動のキング牧師など。作家のカート・ヴォネガットも登場する。

哲学史と哲学を明確に分ける高桑氏は、哲学者の思考を分析するのではなく、抵抗する人々の哲学的営みを後づけその意義を考察する。なぜ、そして何に彼らは抵抗するのか、その抵抗の背景には哲学(的思考)が存在している。抵抗は良いも悪いもない、成否も問題ではない。抵抗すること自体が知的な営みなのだという。帯にはこうある。「哲学とは知的な抵抗である」

 

一方、川瀬氏によるものはヘーゲル哲学の紹介である。大変わかりやすくヘーゲル哲学の入門書としても読むに値する。

ヘーゲル哲学の存在論、認識論、そして歴史哲学と、その哲学の背景を紹介しながらなぜヘーゲルがそのような考えをするに至ったのか、またヘーゲルが何を目指したのか、ゆっくりじっくり何度も整理しなおしながら、学部学生へ語り聞かせるように解説する。

が、この本の眼目は、ヘーゲル哲学の社会生活への応用にあると思う。著者はヘーゲルの考え方が社会を生きる我々にどのように役立つのかまで考察を加える。

たとえばヘーゲル存在論においてカント哲学などを乗り越える形で現存在(Dasine)という考え方を導出した。現存在とは「現にそこに存在している」ものそのものを指す。イデアの影でもなく、また感性と悟性によって認識されるものでもない。目の前に現れているものは、複数の性質を持ちつつ個別に存在している。一つの白い消しゴムは、白さや直方体、ゴムの質感などの一般的な性質を複数有しながら、他の存在とは区別されて個別に存在している。それが現存在だ。
我々はそのように現存在を区別(分類)して認識している。日本人は水と湯を区別して認識するが、英語圏ではいずれもwaterであるというように、その区別の仕方は社会や文化によっても異なる。(ソシュール言語学的転回を想起する)

このようなヘーゲル認識論を紹介しながら、実は現代社会においてもマーケティングの場などにおいて、この考え方が応用されていることを示す。
たとえば「アラサー」というマーケティング用語は、30歳前後という性質によって個別の存在(人々)をまとめて認識可能とする。現存在という形で個別に現れている顧客に対して、年齢層という性質によって区別することで認識することができるようになる。30代性というようなものがあらかじめ存在しているわけではなく、我々が30代前後という性質を用いて、個別の現存在を区切って理解している、ということだ。このような感じで、著者である川瀬氏はヘーゲル哲学を現代を生きる人にとってどのように応用可能であるかを示していく。

さて、年明け早々に面白い哲学系新書が2冊出ていたので、たまたま連続して読んだのだったが、ここで感じるのは、哲学や人文学の有用性に対する意識である。

人文学が実社会において無用の長物であるかのような言説が(今に始まった事ではないにせよ、より切実に)世の中に蔓延っているが、この2冊はそれに抵抗している。著者はいずれも大学教員であるが、それが一体何の「役に立つ」のかという有用性に対するプレッシャーはどの大学においても少なからず存在していることだろう。そういう圧力に対して戦う、抵抗するのもいまや人文学系教員の仕事の一つとなっている。

ただ、今回取り上げた2冊は、たんなる「有用性」以上に「実効性」というべき側面にまでこだわっているように感じられる。世間に対するレスポンスとして切実さすら感じる。

たとえば人文学は人が人間性を獲得するために必要不可欠な教養をもたらすだとか、社会全体の幸福や将来の世界像を生み出すだとか、そういった理念的な効用を言う人は多い。だが、それとは違って、川瀬氏の場合は、ヘーゲル哲学が実社会で生きる一人一人の発想やビジネスに応用可能であるということ、高桑氏の場合も、既存の社会的抵抗の基盤に哲学的な営為が存在していることを述べている。
つまり、いつか人文学は役に立つことがあると言うレベルの有用性ではなく、人文学は「すでに役に立っている」あるいは「社会で実践で使える」ということまでを強調している。先に述べた「切実さ」とはこの辺から感じるのだろう。

すぐに就活や仕事に応用可能なければ役に立つとなかなか思ってもらえないのが現代社会だ。人文学はすぐに役立つわけではないけれども、長い目で見れば必ず役に立つものだ、というようなのんびり構えた物言いは、今の社会ではなかなか許してもらえない。もちろん哲学だってこれまで社会的な実践に多く関わってきている。ヘーゲル哲学の批判からマルクスの哲学は生み出されてきているし、プラグマティズムにせよ実存主義にせよ哲学を実践の場に持ち出している。筆者が研究している柳宗悦民藝運動も同様だ。

ただ今世間一般で言われる学問の有用性=「役に立つ」は、そんな社会全体を見通す大仰なものはほとんど聞かれず、(残念なことではあるが)先に述べた通り「これを学んだら就職できて、仕事でも使えますか?」というくらいの意味合いだ。

今回の2冊はその意味で社会に対する応答(レスポンス)の試みなのではないか。と思うと「切実さ」とともにすこし「切なさ」も感じてしまう。

ちなみに理系は役に立つと思われがちだが、理系の中でも基礎科学や数学(数理)は人文学のような扱いを受けることがあるという。理学部出身の先生から理学に近い学問分野は人文学だと思いますよ、と言われたことがある。つまりは社会生活にすぐに実装されないことをお互い研究しているという連帯意識からだろう。
だが、ノーベル賞にせよ京都賞にせよ、表彰分野に基礎科学や数学そして思想・芸術をすえていることは興味深い。京都賞は、稲盛和夫の「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という言葉を理念として掲げているが、その「役立つ」分野として、先端技術、基礎科学、そして思想芸術の3分野が表彰部門として設定されている。

多くの偉人や社会的成功者たちは人文学の重要性を強調し、軽視していないものだ。逆に、人文学の重要性や有用性を理解できるということは社会的に成功する秘訣なのだと思う。
安直に有用性を問う前に、“本当の「有用性」とは何か”を学ぶ機会も必要なのかもしれない。そうするとまた「そんなことを学んで就職できますか」という声が聞こえてきそうではあるが…。

 

 

 

人文社会学はスローシンキングで

社会学者・森真一氏の『スローシンキング 「よくわかっていない私」からの出発』という本を読んで改めて考えた。

本書で森氏はご自身の授業準備のプロセスを紹介しながら、社会学とはゆっくり考える学問だと主張する。スローフードになぞらえ「スロー社会学」という。

社会学だけでなく、哲学や文学、歴史学など人文学の多くはたいていスローな学問だ。研究者は一つのテーマについて延々と考え続ける。あーでもないこーでもないとなかなか結論がでない。
時々そのテーマから離れ、別のことに関心を向けたりするが、かといって関心を失ったわけではなく、何年か後に同じテーマに戻ってくることもある。かく言う私も柳宗悦の思想についてかれこれ30年以上しつこく研究し続けて飽きることがない。そんなものだ。

森氏がスロー社会学という考え方を持ち出すのは、現代社会のものの考え方が全般的に「受験体制的」であると批判的だからだ。
ここでいう「受験体制的」とは、“努力した分だけ結果が出る”という発想をいう。これ自体そう悪いことではないように思われるが、この考え方には、将来の結果ばかりを優先して効率的な仕事を追求し現在を楽しめなくなるという弊害がある。

そして結果を求めるが故に、途中のプロセスもファスト化することになる。

中学高校時代は定期試験に加え、大手予備校の模擬試験もあり、毎月のように試験で実力を試される。生徒は結果を出すために、効率よく知識を蓄え、受験テクニックを身につけなければならない。予備校や学習参考書が目指すのはできるだけ早く高いレベルに生徒を押し上げることだ。ここでは学びの楽しさは、主目的ではない。

大学の授業でも「考察を述べよ」というような課題を課しておきながら、提出期限が翌週だったりすることがある。学生は複数の授業で同じように課題を課されているわけだから、関連図書を調べて読み込む猶予などもなく、いくつかネット情報をさらうだけで考察もそこそこに要領よく完成させることに注力することになる。

これは社会に出ても同様だ。職種にもよるだろうが、会議資料、企画書、報告書の類の作成を右から左へとこなしていかなければならない。むしろそういった傾向は加速されると言っても良い。

多くの日本人はいかに効率的に多くの作業をこなして素早いアウトプットにつなげるか、という発想のもとに生きている側面がある。

ただ、だからといって何でもかんでもゆっくりのんびりやっていては、やることの多い現代社会では人生何度あっても足りない。森氏も同様に、普段の仕事は効率的にこなすことを意識するタイプだという。
話は変わるが筑紫哲也が『スローライフ 緩急自在のすすめ』(岩波新書,2006)という本を著しているが、そこでも緩急自在という生き方を推奨しているのとつながる。なんでもかんでもスローでいいわけではない。スピードが求められることもある。効率性を重視した方が自分にも周囲のためにもなることもある。だが、重要なのはじっくり取り組むべきことは、スローでやるべきだということだ。そしてそれが森氏に言わせると社会学なのであり、私に言わせると人文学なのである。

 

森氏は社会学には「寄り道」が必要だと言っている。(ちなみに筑紫哲也氏は同じようなことを「道草」と呼び、昔の子どもはよく道草をしたものだが、今はしないと嘆いている。)

理工系の分野なら、いち早く成果を上げることが科学や技術の進歩にとって重要であるという発想も当然ある。社会学でも計量社会学などの分野であればいち早くデータを示すことも求められると思う。無駄な寄り道は極力避けたい。

だが、人間存在や精神、社会と人間の関係性について検討を加えるといった人文社会学では、そうではない。この種の学問では、一般に「調査・実験の結果、○○が明らかになった。発見した。」という回答では誰も満足はしない。むしろそういう設問-解答的な結論は求められていない。

例えばウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義を準備したことを明確に”証明“してみせたわけではない。”証明“ではなく、その関連性についての“知見”を示したのである。
その“知見”に一定の妥当性があるから、説得力が生まれる。その“知見”によって、世の中の人々は、経済的な要因だけではなく宗教的な要因も社会経済構造を読み解く鍵となる、という資本主義社会を理解するための新たな方法や視座を得ることになる。これが『プロ倫』の独創性である。

この場合、宗教を寄り道といって良いかどうかはわからないが、経済的な事象を検討するのに、直接関係しそうもない分野に寄り道することで見えてくることがあるということだ。人文学ではこの手の寄り道が新しい発想を生み出すことが多々ある。いや寄り道こそが発想の源泉である。

寄り道をするためには、スローであることが必要である。
柳宗悦の思想を研究するためには、直接関係のない分野へも寄り道をしなくてはならない。短期間で成果を出すために、グーグルに「柳宗悦」とキーワードを入力して得られた情報を片っぱしから読んだとしても、そこから導き出されるのは概ね一般論に過ぎない。そこからは新規の知見は導き出されない。

ある意味、人文学や社会学が目指しているのは、この一般論からの脱却であろう。人や社会は放っておくと一般論に流れて満足してしまう。だが時に一般論は社会の重要な課題を見えづらくしてしまう。一般論を抜け出して、新たな知見を示すことが、個人や社会のためになることがある。これが人文学や社会学の大きな役割だと思う。だから、人文学を研究する者は、一般論に陥らないように日頃から寄り道をしていなくてはならない。スローシンキングが求められる所以である。
本を読んだり映画を観たり、旅をしたり美味いものを食べたり飲んだり、人と会って話をしたり、かと思えば一人で何か考え事をしていたり…世の中の人文学者はこんなことを熱心にしているものだ。

大学の4年間というのは、人生の中で最も「寄り道」をしていられる時期だ。これはもちろん大学の講義をそこそこにして、あちこち遊び歩いて良いという意味ではない。大学の講義自体がここでいう「寄り道」なのである。
大学の講義では時に、自分の関心とは関係ない知識や社会の何の役に立つのかその場ではすぐに理解できない知識の伝授がおこなわれることがある。そう感じる講義があったら、それら一つ一つが寄り道だと思えばいい。だがそれが後々自分の発想力の源になる。
スティーブ・ジョブスが大学退学後、自分の興味のある授業だけに潜り込んで学び続けたというエピソードは有名だ。その授業の中の一つにカリグラフィーがある。ジョブスはただカリグラフィーの美しさに魅かれたが故に学んだという。だが、これが後々Macの美しいタイポグラフィを生み出すことにつながった。

講義では、効率やスピードを度外視して、寄り道を楽しもう。それに加えて図書館で得られる知識や、長期休暇での旅行、友人たちとの語らい、それらが加わる。

筆者が所属する学科では、経営学社会学、心理学のいずれかを専攻としながら、あえて他専攻も横断的に学べる仕組みにしている。これは一つの分野に軸足を置きつつ、他の分野への「寄り道」をむしろ推奨しているからだ。一見総花的に見えるカリキュラムだが、この「寄り道」の発想が理解できれば、この横断的な学びのシステムを120%享受することができるだろう。

ちょうど今この文章を書いている2月上旬は、卒業研究の完成時期でもある。学生たちは大体3年生ころから自分のテーマを持ち始め、研究活動を徐々にスタートさせる。卒論を完成させるまでに2年弱の時間をかける。学生にはぜひ寄り道やら道草やらをしながら、研究活動をしてもらいたいと思う。そして、先生もそれに付き合うことを楽しみにしているものなのである。

初出:2022年2月6日