KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

民藝と家庭料理:土井善晴という思想家について

ーー家庭料理は民藝である。
  料理研究家土井善晴氏(以下敬称略)の言葉である。

 

そして、土井の近著で今話題となっているのが、『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫、2021年)。ただこの本はいわゆる“料理本”ではない。まぎれもない思想の書だ。

 

民藝とは民衆的工藝の略語である。
料理は工藝ではないから厳密には民藝に含めて考えることはないが、ただ、手仕事、日常、民衆、多産、廉価といったキーワードを共有するという意味で民藝に近い。また家庭料理が供される時に用いられる器こそ本来民藝とみなされるものだ。
その意味で、家庭料理と民藝は親和性が非常に高い。

まずは本文の言葉を引きたい。

一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。

土井は家庭料理の基本は一汁一菜であるという。一汁一菜とは、ご飯、味噌汁、そして香の物の3つで構成される食事。古来庶民の食事は一汁一菜であった。おかず(副菜)が複数供されるのは最近になってのこと。近代栄養学では副菜が含まれる食事をモデルとしているが、味噌汁を具沢山にすることで、十分日々の栄養はおぎなえる。

土井の家庭料理論では、日常的に食される家庭料理では、てまひまをかけず、ある意味手抜きをして構わないという。毎日複数のおかずを用意するのは負担だ。それが料理から人を遠ざける。だが、一汁一菜という伝統的な食事であればそう手間にはならず、負担は少ない。
てまひまをかけるべきはハレの料理であり、それはそれで日本の伝統において重要な文化である。ただ、ケの料理である家庭料理にまでそのてまひまを持ち込む必要はない。

逆にてまをかけなくても、日本の風土が生み出した自然の素材はそのままで十分に美味しく滋養がある。なのに、おかずを用意するために無理をしたり、コンビニや惣菜屋で買ってきたもので体裁を整えるようなことは逆に正しい食生活とはいえない。一汁一菜というシンプルな形での食事を毎日行うことが家庭料理の美である。
おおむねこのような思想だ。

要は、決して派手ではなく、無理もしない地味で何の変わり映えもしない日常生活を丁寧にしようという思想が基調となっているのだが、この思想は柳宗悦民藝運動のそれと全く共通のものだと言って良い。

ところで、一方の民藝の方も、何かというと伝統的な民陶の素朴な美をめでたり、枯淡な工芸品をセンス良く日常生活に取り入れて愛玩したりするイメージがつきまとう。

だが、これも勘違いである。
戦後、民藝派内部でも一部の人々がそのようなディレッタンティズムに走り、民藝運動もいっとき混乱をした。柳の盟友である英文学者、寿岳文章でさえ、それを嫌って民藝運動から離反している。

そして、同じ意味で、今なお民藝はディレッタンティズム的な受け止められ方は無くなってはいないだろう。

だが、個々の民藝品を愛で、良し悪しをうんぬんするのは柳の考えた民藝のふるまいではない。まして、センスを競い合うようなことがあるとすれば、それは全く民藝の趣旨に反している。

例えば柳は『陶磁器の美』の中で、次のように述べている。

吾々の日々の生活が如何にそれ等のものゝ匿れた美によって知らず知らず温められてゐるかを知らなければならぬ。今日の人々は喧しい蕪雑な此の世の生活のうちに、それ等のものを顧る余裕を愛しないかしら。私はかゝる余裕を貴い時間の一部であるといつも考へてゐる。かゝる余裕を富の力に帰してはいけない。真の余裕は心が産むのである。富は美の心までを作りはしない。美の心こそ吾々の生活を豊かにするのである。

我々の日常生活は、なんでもない日常的な民藝の美によって知らない間に温められているものだ。つまりあえて民藝を用いて生活を美しく飾らなくても、正しい生活をしていれば知らず知らずのうちに美しくなっているものなのである。それを顧みる余裕が欲しいのだが、それは富(お金)で買えるものではない。本当の余裕とは民藝の美しさを理解する”時間”をもつことであり、それを理解する心によって生活の豊かさはもたらされるものだ。柳はそう説く。

柳の思想の根底には、日常生活への倫理の眼差しが存在している。そこにはディレッタンティズムやセンスを求める心の動きはない。むしろそこから離れた心の余裕が求められている。日常生活を丁寧に送るという道徳や倫理が流れているのである。

もう一度土井善晴に戻ろう。

土井善晴の家庭料理に見る思想は、まさしく民藝運動の原点を彷彿させる。

土井は中島岳志との対談集『料理と利他』において、民藝運動の中心人物の一人河井寛次郎の記念館を見てインスピレーションを得たと語っている。土井善晴の思想に民藝が一つの影響を与えていることがわかる。

土井の家庭料理論は、柳の民藝論同様に、一つ一つの料理の出来栄えよりも、その背景にある生活のあり方に主眼がある。
SNSにアップして「いいね」を期待するような小洒落た料理を目指す姿勢とは真反対。むしろ忙しい毎日の中でもひたむきに作られる名もなき一汁一菜という家庭料理に目を向ける。まさに民藝だ。

もう一箇所、土井の文章を引用する。

若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。(中略)家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親が自分の作る料理について「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。

要は柳も土井も共に、日常生活の中の無意識、無為の美に注目している。作為的な美や美味しさではなく、無為の日常生活の中にこそ美が宿る。柳は工藝を通して、土井善晴は料理を通して、そのような日常性を人々に提案しているのである。

2021年から2022年にかけて、東京近代美術館において「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展が開催された。テレビやネットでも多く特集や紹介記事が組まれている。100年を経過して改めて民藝思想が再注目されているようだ。

スローフード、地方移住、ミニマリズムエシカル消費働き方改革ワークライフバランス、ワークインライフ…こういった生活の仕方についてのキーワードが浮上しているが、生活倫理への関心が背景にあるのだろうし、民藝が再注目を浴び家庭料理を民藝と捉える土井善晴の著書がベストセラーになることと、このことは無関係ではない。
今なお、あるいは今こそ民藝的思想が社会から求めている、ということなのだろう。