KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

卒論指導という難問

大変久しぶりにブログを書いています。

大学では通常授業とは別に常時卒論指導も担当しています。長期休暇であっても定期的に学生とは連絡を取り合って対面・zoomで指導しますので、通常授業よりある意味時間も労力も費やします。テーマが面白いと、学生の話をききながらも、自分も一緒になって勉強したりして、なかなか充実した時間でもあります。

 

ちなみに、私の研究室は「文化社会学」という領域で卒論を進めています。私自身は「文学研究」からスタートし「文化研究」→「文化社会学」という形で自分の専門領域を拡大してきました。

こう書くと発展的に研究を進めてきたように見えるかもしれませんが、私が学生だったときの「文学研究」はすでに、「文化学」も「文化社会学」も内包するような大きな研究領域だったと思います。ですから、実質的にはやっていることは変わってはいない、というのが実感です。(勤務先での担当分野が「社会学」であったという事情もありますが)

 

さて、卒論指導の話に戻します。

どんな研究でも通常最初に「問いを立てる」という作業を重視することでしょう。

自分は何をどのように問題とするのか、という「問い」をしっかり考えて研究の中心にすえるということです。

学生はこの「問い」(リサーチクエスチョン)を検討する時に大抵はつまづき、とても悩みます。が、それはじつに健全です。

逆につまづかずに、すぐに「できました!」とサクッと持ってくるものは、大抵は浅い問いです。そういう「問い」でスタートした研究は、やはり途中で行き詰まってしまうものです。

「問い」は論文を書きながらも常に考え続けるもの。これを「問いを鍛える」といいます。

(研究者であれば、むしろ論文を書き終えた時には、より深い問いを見出していて、結論の不十分さに後ろめたさを感じながら投稿する、ということもよくあることです)

 

ところで、この「問いを立てよ」という課題を学生に出す前にいつも悩むのは、学術的な理論や方法論をどこまで指導するか、ということです。

社会を見回せばあちこちに「問い」のネタとなるものはありますが、つまり「対象」はみつかりますが、それだけでは「問い」は発せられません。「問い」を発するということは、発する人間である自分自身の立ち位置を自覚するということでもあります。

この場合の立ち位置とは学術的・理論的な枠組み(フレームワーク)と言えます。

文化社会学の場合は、結構込み入ります。
ある文化的事象を扱うのに、文化の内実に焦点をしぼって事象の意味や解釈を追究するのか、あるいは社会的事象の一つとして外部から対象となる文化事情を検討するのか。対象とする事象をどのようにカテゴライズして検討するのか。ミクロな視点で検討するのか、マクロな視点を意識するのか。経済的な側面、社会システム的な側面、テクスト分析的な側面etc.。

文化をどの観点から切り取って分析対象とするのか、ということは学術の世界では常に検討が繰り返され、新しい理論、分析の観点、手法が次々の提示されています。私自身にはある程度決まった方法論があり、それで研究を進めていますが、それさえ理解していれば良いということではなく、他の方法論にも目配せして自分の方法が妥当であるか、ということには自覚的でなければなりません。

この学術的な考察の枠組み(フレームワーク)を意識しなければ、本来「問い」は立てられないのではないかと思います。「問い」がなければ、そして自分の立ち位置に自覚的でなければ、一生懸命作業はしても興味関心のあることについて「調べてみた」というレベルで終わってしまいます。

学生はとりあえず卒論完成させたと安堵するとは思いますが、自分が何をなし終えたのかもあまり理解できず不完全燃焼感は残ることでしょう。

 

特に文化研究で扱うテーマは、現実社会では喫緊の課題ではないものが多いので、考察の枠組みがしっかりしていなければ、効用感や達成感が低いのが現実です。

たとえば貧困などの社会問題を扱えば、多少ピントがぼやけていても社会的な意義は感じられるでしょうけれども、文学作品を分析するなどの場合であれば自分なりに新たな知見を示せたというような手応えがなければ、意義も感じづらいものです。つまり、「趣味」のように見られてしまいます。

ちなみに、学部生向け卒論教科書の多くは、段取りや調査の手法、論文の構成、論文執筆のルール等の実務的な解説はあっても、この「問い」の立て方に関する有効な指導はあまり見受けられません。問いの立て方に踏み込むとすれば、プロの研究者向けの研究指南系の本まで進まないと、みられないような気がします。

 

そういうことで、(学生からは敬遠されがちな)理論の勉強をしてもらいたい、考察の枠組みにも関心を持ってもらいたいという思いはあります。が、これから研究者を目指すわけでもない学部生に、どこまで学ばせるかという難問が待ち受けます。ただでも文化研究の理論は、捉えどころが難しく、説明する本も難解なものが多く、、、それらを大学4年間で学んで理解することはなかなか難しい。

であれば、どうすればよいのか。

答えの一つとしては、難しいことを言わずに、指導する教師の得意とする枠組みに学生の「問い」を押し込んで、ひたすら作業をさせるという方法も考えられます。こちらから何をしらべ、どういうふうに考えるかを指導していけば、作業としては進みます。学生も知識理解の面での負担は少なく、興味を持ったことに集中できそうです。(教員によっては学生の興味関係なしに、テーマを与え作業をさせるという修行的指導法もあります。)

が、自分としては卒論くらい学生が自分で考えた「問い」で自由に挑戦してほしいとも思います。研究の面白さは、ある意味「問い」を自分で考え出すこと自体にあるからです。

サッカーで例えるならば、監督から動きを一つ一つ指示され、それに従って将棋の駒のようにプレイするのと、作戦や戦術から、もっといえばトレーニング法の時点から、自分でチームの勝利に貢献する方法をさぐりながら試合に臨むのとどちらがよいか? 

たとえば、理工系学部の実験室タイプのゼミであれば教授のテーマにしたがって作業員として行動するのも一つの方法なのかもしれませんが、文化研究でそのようは手法を使っても、おそらく面白いことを生み出すことはできないでしょう。基礎調査的な部分では作業も行いますが、最終的には自分だけの観点や価値観を示すという個人の精神的な営みが文化研究だからです。

つまり、先ほどの例でいえば、文化研究においては将棋の駒のように指示されて作業をしても何も生み出されないのです。

学部学生が学術的な理論枠組みを学んでもらうことは難しいし、忌避される傾向にもあるけれども、それを学ばずに”楽しい”文化研究をすることも難しい。

いつも頭を抱えている難問です。