KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

日常を持ち出すーポータブルな日常について

学生の卒業研究指導をしていると、様々な思わぬヒントが得られる。

学生本人よりも教師の方が得ることの多い指導回もあるかもしれない。それはもちろん本意ではないんだけど。

 

先日、外国人訪日観光客は日本の何に惹かれて来るのか、ということをテーマに学生と話をした。単純に考えれば日本ならではの文化や歴史、景観、食といったものが目的だろう。サブカルチャーも人気だ。自国には無い、本場日本を体験したいという「非日常」を求めている、というのが典型的な答えになるのかもしれない。

ただ、こんな結論では残念ながらわざわざ研究する必要はない。もっと深く考えないと、と指導をしていくわけだけれども、指導しながら学生の思いから離れて自分自身のアイディアが広がっていく、ということはよくあることだ。

 

私自身の考えを少し述べよう。私はかねがね海外旅行には「非日常」ではなくむしろ「日常」を求めているのではないかと考えていた。もう少しきちんというと、「非日常」を求めているんだけど、その求めている「非日常」とは自国にないものなのではなく、自国にもあるような「日常」なのではないか、ということである。

私自身旅行は大好きで若い頃から海外も多少は旅している。学生時代などは確かに非-日本的な非日常を求めていた。見たことのない景色、街、風景、食べたことのない食などなど。自分の認識をガラッと変えてくれる体験を期待していたと思う。

ただ今はその感覚はもう殆どないかもしれない。
十分に観光地の予習をして、現地では日常を忘れ、日本とは別の世界を存分に味わうもの、という海外旅行の発想は自分の中では10年以上前のものだ。

その後私も家庭を持ち、家族での海外旅行も何度かしている。だが、自分も家族たちも、結局現地に行っても行動パターンは普段と大きく変わらない。

私も家族も、滞在先ではあまり熱心に観光地を見て回ることなどせずに(もちろんせっかくだから行くことは行くけど)、むしろ朝起きてから普段の休日のような「生活」を楽しんでいる。
宿もホテルではなく貸別荘やコンドミニアムで数日滞在することも多いから、食事も洗濯も自分たちでやる。ゴミの分別までやって、ゴミの日に出しに行く。

そこでふと思うのだが、その生活スタイルは結局はネットやスマホによっている。
スマホがあるから日常が継続されている。友達とのLINE、熱心にやり続けているゲームアプリ。仕事のメールにも普通に対応している。その日のランチは、その日になってからおもむろにネットで検索して、近くにある良さげなお店を探して行ってみたりするし、雨が降っていたり疲れていたりしたら、外出せず部屋でゴロゴロしながらyoutubeなんかを見ている。場合によってはちょっとした仕事もしている。夕方に晩ごはんのために近所のスーパーに食材を買いに行く。3〜4日も田舎に滞在していると、現地の人とちょっとしたコミュニケーションが生まれたりもする。

せっかく休暇をとって海外まできて、それでつまらなくないのか?全くそんなことはない。
結局、自分は日常の生活を海外に持ち出すことが楽しいのだと思う。「日常を持ち出す」、この日常をポータブルに楽しむことが私(たち家族)が求めている「非日常」ということ。こういうことになるのではないだろうか。

 

私が好きなエッセイストにphaさんという方がいるが、著書のなかに『どこでもいいからどこかへ行きたい』という本がある。

phaさんは、時々生活が煮詰まると、ふらっと夜行バスなんかに乗って、目的もなく別の町に行き、数日滞在するのだそうだ。何でもない安宿に泊まり、そこでやっぱりスマホをいじったり、街をぶらぶら散歩したり、サウナに入ったりと、日常的な行動をとる。そういう旅(と言っていいものか…)を時折挟み込むことで、日常を維持しているという。この日常を持ち出している(持ち歩いている、という感じかも)感覚は本当に共感できる。

今の我々の日常とはすでにwifiだ。そして、wifiがあるところでは日常が延長されている。
私の世代にとって、以前はケータイがつながるかつながらないかが、一つの日常/非日常が分かれる境界線だったと思う。つながらないところにいるときは、仕事からも日常的な人間関係からも切り離された。そうやってときどき日常に区切りをつけていたのである。

でも今は殆どの国に行こうが大抵は日常につながっている。
人にはハレとケのメリハリが必要なのかもしれないが、wifiに覆われている今の世界では空間的に移動したくらいでは、ケが常につきまとって離れることはない。

いや、むしろ海外であっても熱心にスマホをいじっているところからわかるとおり、人は日常から切り離されることをもはや望んではいない。(切り離されることを恐れているとすら言えるかもしれない。)

またここまで考えてみたら、逆に非日常とは何かを改めて問い直しても良いと思う。

たとえば、現代人にとっての非日常とは、今住んでいるこの街にあっても、災害などによって通信が途絶えた時に本当に実感する種類のものなのかもしれない。

以前、胆振東部地震で北海道全域がブラックアウトしたことがあった。皆食料などの他にスマホのバッテリーを確保することに一生懸命になっていたのを覚えている。空間的な距離は非日常は生まない。wifiとの距離が非日常を生む。案外それが現代の感覚かもしれない。

 

卒研指導では、こんなことも少し考えながらお話をした。大半は彼の話をした後、私の中で膨らみ上がってきたアイディアだが、話しながらいろいろなニュアンスで伝えたつもりである。

ただ、考えるのは学生本人の仕事だ。それに私のアイディアが発展性があるのかどうかもわからない。これをヒントとしてもしなくても、しっかり考えてもらうしかない。

学生には存分に考えてほしい。でも、教員も一方でいろいろ考えていたりする。