KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

石原千秋『未来形の読書』を読みなおす

研究室の本棚の新書を整理していて、久しぶりにこの本を手に取った。

石原千秋さんといえば、私が大学院生だった時、文学研究界、新進気鋭の代表格のような存在。一生懸命読んだ。この本は2007年に出版である。

文学理論について平易な言葉で、具体例も挙げて説明してくれている。
私の授業で難解な理論を説明する時にこの本は活用させていただいた。

今回、改めてパラパラ読み直していると(本棚の整理をすると大体こういうことになる。いつの間にかそれまで読んでいた本を一旦置いといて、こっちの本を最後まで読んでしまう。)読書論としても改めて学生に薦めてみたい本だったと気づいた。

本を読んでもらいたい、という気持ちからいろいろ読書論を読んで、それをもとに学生ともお話しをすることがあるけれども、この本ももっと早くに薦めていたらよかったと思う。

 

「読書術」というタイトルを冠しているのだから、やはりどう本を読むのか、ということがテーマにはなっている。

けれども、一般的な読書論、読書術とは観点が違う。

一般的な読書論は、読書の効用の理解からはじまり、どんな本をどうやって読めば良いのか、読めるようになるにはどうすれば良いのか、といった感じで、読書を励行していくだろう。

それに対してこの本では、まず「読書とはどういう行いなのか」というところから始める。大学の先生らしい導入である。

 

読書には「未来形」と「過去形」の二つの読み方がある、という。

まずは「過去形」について。

人は本を読む前から本の周辺の情報(パラテクスト)を元に、ある程度本の内容をわかっている(もしくは予想している)。
人は、知っていることやわかっていることが書かれている本を読み、自分の知識や考え方が合っていることを確認して安心するところがある。
物語であっても、人の成長物語や恋愛成就物語など、最初から結末がわかっているにもかかわらず読んで納得する。
ダメな主人公が努力して成功する、ひたむきな愛が相手に届き成就するなど。
これがいわゆる「過去形の読書」、今の自分を肯定するために読む読み方だ。これまでの自分の知識や世界への理解が正しいということを確認している。
(ちなみに石原さんはこの読み方がダメだと言っているわけではない。)

つぎに「未来形」。

わからないことが書いてある本を読むということは、読み終わった時には自分はそれをわかっている人になっているはずだ。わからなかったことがわかるようになっている、そういう知的な成長を期待もって読むのが「未来形の読書」である。
そして、その本を読もうと思って手に取って選んだ、ということは、その読書には自分が、そういうことをわかっている人物になりたいという、期待する自分の未来像が反映されていることになる。
ここに自分のアイデンティティの問題が浮上する。

ここにイーザーの空所理論が挿入される。人は本の内容をそのまま理解して自分の取り入れるわけではなく、解釈の余地(空所)がさまざまにある本を前にして、自分なりの解釈を施しながら読み進め理解する。

自分がどんな人間になりたいのか、という思いが読書内容(理解、解釈)に投影されるというのである。石原さんの言う「本は読者の鏡である」ということだ。

そしてこの過去形と未来形の読書術について、ヤウスの「期待の地平」理論が持ち出される。

自分が知っているとおりだった(過去形の読書)というのは、地平の変更の幅が小さい=大衆的な受容であり、一方で、未来形の読書は、自分が知らない知識を得、知らない世界を見ることができるという意味で驚きがある、つまり地平の変更の幅が大きい=美学的な受容だ、ということである。

ヤウスの理論がそうであるように、石原さんの言う、過去形の読書と未来形の読書の間にも優劣があるというわけではない。どちらもそれぞれ効用がある。

だが、やはりタイトルが「未来形の読書術」とあるように、石原さんが強調するのは未来形の方である。
数ある本の中からその本を取り出し、読み始め、そして何らかの理解を得るという行為は、自分のアイデンティティと深くつながった行いなのだ。
読書の中には、自分はなにもので、これからなにものになるのか、なりたいのか、なろうとしているのか、という問いが自然に投影される。

自分が知らない知識世界を得ようという未来形の読書をする人は、自分がどうありたいかという問題に向き合っている人なのだといえる。

石原さんは知識欲を持っている状態を(年齢問わず)精神的に「若い」という。逆に例え実年齢が若くても知識欲や好奇心がない状態を「精神的老人」という。

未来形の読書を通して精神的な若さを保つこと、そして、決して精神的老人になってはいけない。これも石原さんのメッセージの一つだろう。

だいぶ自分の理解、解釈を交えた要約ではあるが、「未来形の読書」は以上のようなことを述べている。一般的な読書論とは異なるのがわかる。

そして、私も、石原さんのこの本を手に取ったのは、読書とは何か、その効用を自分も知りたいし、学生にも伝えたいという未来の姿があるからだ。
それを自分の教師としての使命と自ら任じているから読んだのでもある。
自分の教師としてのアイデンティティにつながっている。そのようなアイデンティティへの意識がなければ、この本を自分から手にし読むこともなかっただろう。

本棚を眺め、これまで自分が読んできた本(あるいは積読状態で読んでいないものも含め)は、自分自身の未来形なのだと気づく。
これらの本にある知識や世界を知った自分でありたい、という自我が本棚には反映されている。

だから人に本棚を見られるのは、少し気恥ずかしいのだろう。
そして一方で、少し誰かに見せたい気持ちも確かにあるのだろう。