KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

新潟紀行(1)ー新潟

久しぶりの研究出張で道外に来ている。新潟県である。
昨年は、コロナの波の谷間を縫って、東京に1回行ったきりでほぼ出張はなし。
研究に関する資料はある程度ネットを通してなんとかしてきたけれども、どうしても現地で見なければならない資料がある。今準備中の論文を完成させるためには仕方がないのだから、なんとか都合をつけて出てきた。感染予防は可能な限り十分にして。現地で飲み歩いたりしないようにする。

自分のモットーは、出口治明先生の言葉をお借りして「人・本・旅」としている。
「本」は読んでいる。「人」は今は極力我慢せざるを得まい。だから「旅」はどうか許して欲しい。という心境だ。

旅に出るとやはり脳が活性化される。ずっと色々なことを考え、整理しなおされ、新しい疑問が湧き立っている。

これから、旅をしながら思ったことを少しつらつらと書いてみたいと思う。

今回の旅行の目的も、もちろん柳宗悦や民藝に関連する調査である。

新潟県はかなり柳宗悦ゆかりの地である。
特に今回お邪魔する柏崎市は柳の運動を地方からバックアップした吉田正太郎という重要人物の地元だ。いわゆる旦那衆と呼ばれるような人たちで、財力も人脈もあり、かつ趣味人でもある。柳のさまざまな活動、文化事業に理解を示して支援したし、逆に柳に新たな情報やインスピレーションを与えている。

前回柏崎にお邪魔した際は、そのご遺族の方にもお会いしてお話しを伺ったのだけれども、今回は状況を鑑みてメールで訪柏のご連絡だけして、面会は遠慮した。万が一のことがあってはいけないので。

さて、新潟と民藝の関係についてもいろいろ考えるところがあるが、その前に、実は最近北前船について勉強しており、そのことについても書いてみたい。

北前船日本海沿岸と瀬戸内関西の間を、物も、人も、文化も結びつけたいわば江戸・明治の廻船である。北海道人である私としては自分のルーツや文化を考える上で、関心を持たないわけにはいかない。私の故郷は函館だし、さらに父方の実家は松前である。高田屋嘉兵衛は函館ではレジェンド扱いだ。

北前船の勉強は、江戸から明治にかけての地方間の文化交流という点で面白いが、それを千石船(弁財船)で危険をかえりみず果敢に取引した200年から150年も昔の人々を想像すると結構ドラマだと思う。そこも惹かれるポイントだ。

北海道で仕入れたニシン糟が本州で何倍にも売れた時の船主の喜びはどれほどだったろうか。嵐にあって船もろとも財産を失ったときの落胆は。あるいは命だけは助かったことを神仏に心底感謝しただろうか。仲間や家族を失った者の悲しみは。小説化も少しはされている。探して読んでみたい。

また北前船の栄枯盛衰を知ると、日本海という経済圏、北陸や新潟、東北の文化圏がどのようにして今の形になったのかが見えてくる。

北前船の全盛期は幕末から明治前半であったが、それは日本の近代化によってやがて凋落する。日清日露戦争を経て、太平洋側を中心に鉄道網が広がり工業化が進む。電信技術によって産品の地域価格差が縮まる。西洋式帆船や汽船が導入される。太平洋側を中心に工業が発展する。そういう時代の変化は北前船の競争力を急速に奪っていった。それが明治30年ころのことだ。

北前船はこの時期に姿を消す。禁止令が出たという話も聞いたが勉強不足で定かなところはまだ知らない。日露戦争時は、北前船船主は政府に船を供出したというし、また撃沈された船もあったという。そういった外交的な理由で日本海が安全な海域でなくなったのかもしれないが、それ以上に、やはり先に述べた通り、太平洋側に対して競争力がなくなったということなのだろう。

船主は、力のあるものは北洋漁業海上輸送業、地主として農場経営に乗り出し、力のないものは没落していった。

北前船の凋落と時を同じくして、日本は太平洋側の発展する「表日本」と、表を支える(いや、表から搾取される)「裏日本」という経済産業構造へと転換する。北陸、新潟の近代は社会基盤や教育が表日本から20年遅れで、食糧やエネルギー、人材の供給基地としての役割を押し付けられてきた。

今でも、東京ー名古屋にリニアモーターカーが開通するという時代に、北陸はいまだに新幹線が延伸途上である。山陰に至っては着工すらしていない。

北前船に関心をもっていろいろな本を読み漁っていると、こんなことが見えてくる。

この辺のところは北前船関連の研究書を読んだりして知った。

その中でも手軽に読めるのはやはり新書である。
すでに品切れであるが、北前船の街加賀市出身の小説家高田宏の『日本海繁盛記』(岩波新書、1992)は読みやすい。小説のようにドラマチックな描写がよい。

また今回の旅のお供本は、

である。これは裏日本というレッテルがいかにして生み出されてきたかを、少し怒りを込めて書かれている。

裏日本はすでに死語だが、観念自体は死んでいない。実態としては新幹線の事例のようにそこかしこに残存している。

その一方で加賀百万石という言葉があるとおり、江戸期まで北陸、山陰、越後には中央にも負けない文化もあれば、経済力もあった。近代化の過程でその力関係は変容し、裏日本としてのアイデンティティをおびて現在に至るのだ。

さて、柳宗悦新潟県と関係を持つようになるのは1920年代前半である。柳宗悦の盟友、陶芸家の富本憲吉のパトロンであった糸魚川(鬼舞)の伊藤助右衛門との交友がその最初のことと見られる。伊藤助右衛門とは非常に有力な北前船船主の一人である。

ただし先に述べた通り、柳が伊藤と知り合った時は北前船の時代はすでに終焉を迎えていた。とはいえ伊藤は当地の大地主になっており、富本憲吉含め芸術家を支援するだけの勢力を持っていたようだ。

柳宗悦の有名な一文「失われんとする一朝鮮建築のために」は、日本海に面した伊藤家に滞在中のある朝、朝鮮半島の方角を眺めながら一気呵成に書き上げたものだと伝えられている。

柳に柏崎の吉田正太郎を柳に紹介したのはこの伊藤助右衛門だったようである。伊藤と吉田は実は同級生だったのだ。(実はこの辺の事情も今回の調査項目である)

要するにこの地の旦那衆は、地方の文化人として、中央の芸術家や文化人を支援するだけの勢力は維持していたということである。柳宗悦だけではない。吉田正太郎ら柏崎の旦那衆は北大路魯山人会津八一、堀口大学川上澄生らとも交流、支援をしている。

柳等が見出した民藝は、この手の近代化から取り残された地の産品が多い。そして地方の民藝の発見を支援したのは地元の人々だ。柳にとっては近代から取り残されていく所にこそ近代が失いつつある真の工芸があったのだろうし、地方の人々にとっては地域の価値を見出し、中央へ紹介してくれる存在が柳であっただろう。


ところで、柳と地方文化人らの結び付きには、実は鉄道の存在が大きく作用している。柳の主な移動手段は鉄道だった。鉄道網は明治末から大正期に急速に拡大している。柳の新潟への旅も開通まもない鉄道を用いている。当時柳は京都に居住していた。明治末期に敦賀、福井、金沢、富山と延伸を続ける北陸本線は、やがて大正期にいたって糸魚川直江津、柏崎と接続するようになった。柳の行動範囲は鉄道網と密接に関係している側面がある。

民藝は一面前近代を志向する思想運動であるが、その運動は近代化によって実現した側面もある。

 

(余談)今回の研究旅行で、新千歳空港から新潟空港へ飛行機で移動した。幸い上空から地上を見下ろすことができた。日本海が眼下に広がる。200年〜150年ほど前、何百艘という北前船がこの海を行き来していたのだろう。

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眼下に広がる日本海