KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

禁欲についてープロ倫からミニマリズムへ

昨年の末頃から、教え子たちと語らって読書会を始めた。強要したわけではなく、どちらからともなく始めてみようかという話になってのこと。
私も大学生の頃、いろいろな読書会、勉強会に参加していたが、今もこういう学生がいるんだな、と懐かしい気持ちになる。

さて年が明けたら一冊古典的な名著を読んでみよう、という話になり、選んだのがウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*1

第1回目は第1章第1節と第2節。

自分の手元の本の奥付を見ると1998年の版で、大学院生時代に買ったもののようだ。

一度読んだ記憶はあるが、あらためて読み返してみると、当然細かな点で新たな気づきがある。古典が古典である所以である。
ウェーバーはこんなに慎重な論理の展開のしかたをするのか、とか、マルクスを意識した記述をこんなところでしていたな、とか。

ところで、この機会にウェーバーが「資本主義の精神」を有した人物の代表として挙げているベンジャミン・フランクリンの自伝も読んでみた。
『フランクリン自伝』*2は、アメリカの自己啓発書の元祖的なテクストである。
自叙伝ではあるが、途中「勤勉industry」「節制temperance」などの13の徳目を説く。自己啓発書的な性格の本だ。
この精神が近代資本主義の発展にマッチしたというわけである。
この本は資本主義国家アメリカの倫理観や生活規範に大きな影響を与えてきた。

アメリカだけではない。
『フランクリン自伝』は、戦前の高等学校の英語副読本として日本でも広く読まれたもので、100年くらい前の日本の若者の思考にも大きな影響を与えた。

この本が日本に紹介される前、明治4(1871)年には英国人サミュエル・スマイルズの『自助論(原題:Self-Help)』がベストセラーとなっている。当時は中村正直訳『西国立志伝』というタイトルであった。
『自助論』は、西洋の成功者列伝の書。志を持って努力を重ねることの重要性を説いている。
この本は日本で何度も翻訳しなおされ、出版社を変えながら、今だによく読まれているのだから、日本人の「勤勉をよし」とする精神の一部に、『フランクリン自伝』も含めこれらの本は少なからず流れ込んでいるはずだ。

それにしても日本人は自己啓発書が大好物である。その辺について社会学的に論じた研究に、牧野智和氏の『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探求』(2012)、『日常に侵入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ』(2015)の2冊がある。

牧野氏の本のタイトルにも現れているように、現代日本自己啓発は、精神的な修養にとどまらず、片づけや生活様式といった物質的(身体的)な側面の変革にも及ぶ。

断捨離(やましたひでこ)、片づけ(近藤まりえ)、ミニマリスト(佐々木典士)など、今世紀の日本の自己啓発思想(?)には形式重視、身体生活形式を整えることが精神面を整えることにつながる、という発想が強い。

また、身体や身辺(生活)を整えるというこの発想は禅に起源の一つを求めることができるだろう。禅僧で大学教授、日本庭園デザイナーという多彩な顔をもつ升野俊明氏の本も非常に人気があるが、上記各氏が受け入れられることとその土壌を同じにしていると思う。

禅的シンプリシティは日本人には馴染みが深いが、世界中にもその価値観は広まっている。スティーブ・ジョブスがすぐ思い浮かぶが、たとえばシンプルなライフスタイルを説いて世界的に人気を博しているブロガーであるレオ・バボータのブログサイト名は『Zen Habits』*3である。

バボータの著作『減らす技術(原題:The Power of Less)』*4は、本質に集中しその他の狭雑物を取り除くことが、人生を豊かにする秘訣であると説く。

MORE(より多い)を求める欲望を抑え、管理し、飼い慣らし、LESS(より少ない)を目指すこの“禁欲的”な態度がこの10年このかた、一つの潮流になっているといっていいだろう。

さて、ここでウェーバーの話に戻ってくる。

経済学者でありウェーバー研究者である橋本努氏は、最近『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』という興味深い著作を上梓した。
橋本氏は近代以降の消費のスタイルを、「近代」は大量生産による享楽的消費、「ポスト近代」において記号的付加価値の追求と欲望の肥大化と整理した上で、現在は「ロスト近代」であり自己の可能性の開発に関心が向かうという。
当然その背後には、資本主義経済がもたらした現状への危機意識が働いている。環境問題、格差社会、グローバリゼーション。

『欲望の資本主義』がNHKの正月恒例番組となっているが、まさにこの欲望が暴走した社会に対する危機意識である。

このロスト近代に登場するのが橋本氏がいう「消費ミニマリスト」である。彼らのエートスは物欲ではなく、自己研鑽に向かう。それはウェーバーのいう禁欲的プロテスタンティズムエートスと重なり合う部分がある。*5

プロテスタンティズムミニマリスト、いずれも禁欲的な消費行動を良しとする。
フランクリンの13徳の筆頭第1徳は「節制」であり、そこでは「飽食と暴飲」を戒めている。
ほうっておけば人間は欲望のままに暴走してしまう。
それを抑えるために“禁欲”が持ち出されるがその倫理の土台となるのが、プロテスタンティズムであったり、禅であったり、宗教的なエートスであることは興味深い。

欲望をいかに律するかは人間社会の永遠のテーマである。そして欲望だけが近代資本主義社会の原動力になってきたというのではなく、禁欲も一役買っているという点は改めて考える必要がある。今、COVID-19ウィルスのために人々はさまざまな禁欲を強いられている。だが、こうした外圧的禁欲の環境下でも人は欲望を枯らすことはない。禁欲を強いられる社会状況下で、人は欲望をいかに満たすか知恵を絞ることをやめはしない。

一方で宗教は内発的禁欲ということになろう。自己啓発によるミニマリズムもそれに連なる内発的な禁欲と言って良さそうであるが、自己の成長や洗練された生活を目指す意味で、精神的には貪欲にも見える。物質的な消費に対しては禁欲的であっても、自己投資という精神的な消費にはむしろ惜しまず、貪欲な姿勢を見せる。これを禁欲と捉えるのか?(物質面では確かに禁欲的あろうが…)人間の欲望をどの方向に振り向けるのか、という問題であるようにも思う。

人間や社会にとって“禁欲”とは何か。そして禁欲は何かを打開する力となるものなのか。難しい問題である。

学生たちと読書会を続けながら、もう少し考えてみることにする。

2022年1月15日改稿

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳

*2:松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957改版

*3:https://zenhabits.net/

*4:ディスカバー・トゥエンティワン、2009

*5:ただし、橋本氏は、消費ミニマリストはロスト近代の時代に登場した人々であるという指摘はしても、それが直接「脱資本主義」につながるわけではないと指摘している点も見逃してはいけない。