KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

人文社会学はスローシンキングで

社会学者・森真一氏の『スローシンキング 「よくわかっていない私」からの出発』という本を読んで改めて考えた。

本書で森氏はご自身の授業準備のプロセスを紹介しながら、社会学とはゆっくり考える学問だと主張する。スローフードになぞらえ「スロー社会学」という。

社会学だけでなく、哲学や文学、歴史学など人文学の多くはたいていスローな学問だ。研究者は一つのテーマについて延々と考え続ける。あーでもないこーでもないとなかなか結論がでない。
時々そのテーマから離れ、別のことに関心を向けたりするが、かといって関心を失ったわけではなく、何年か後に同じテーマに戻ってくることもある。かく言う私も柳宗悦の思想についてかれこれ30年以上しつこく研究し続けて飽きることがない。そんなものだ。

森氏がスロー社会学という考え方を持ち出すのは、現代社会のものの考え方が全般的に「受験体制的」であると批判的だからだ。
ここでいう「受験体制的」とは、“努力した分だけ結果が出る”という発想をいう。これ自体そう悪いことではないように思われるが、この考え方には、将来の結果ばかりを優先して効率的な仕事を追求し現在を楽しめなくなるという弊害がある。

そして結果を求めるが故に、途中のプロセスもファスト化することになる。

中学高校時代は定期試験に加え、大手予備校の模擬試験もあり、毎月のように試験で実力を試される。生徒は結果を出すために、効率よく知識を蓄え、受験テクニックを身につけなければならない。予備校や学習参考書が目指すのはできるだけ早く高いレベルに生徒を押し上げることだ。ここでは学びの楽しさは、主目的ではない。

大学の授業でも「考察を述べよ」というような課題を課しておきながら、提出期限が翌週だったりすることがある。学生は複数の授業で同じように課題を課されているわけだから、関連図書を調べて読み込む猶予などもなく、いくつかネット情報をさらうだけで考察もそこそこに要領よく完成させることに注力することになる。

これは社会に出ても同様だ。職種にもよるだろうが、会議資料、企画書、報告書の類の作成を右から左へとこなしていかなければならない。むしろそういった傾向は加速されると言っても良い。

多くの日本人はいかに効率的に多くの作業をこなして素早いアウトプットにつなげるか、という発想のもとに生きている側面がある。

ただ、だからといって何でもかんでもゆっくりのんびりやっていては、やることの多い現代社会では人生何度あっても足りない。森氏も同様に、普段の仕事は効率的にこなすことを意識するタイプだという。
話は変わるが筑紫哲也が『スローライフ 緩急自在のすすめ』(岩波新書,2006)という本を著しているが、そこでも緩急自在という生き方を推奨しているのとつながる。なんでもかんでもスローでいいわけではない。スピードが求められることもある。効率性を重視した方が自分にも周囲のためにもなることもある。だが、重要なのはじっくり取り組むべきことは、スローでやるべきだということだ。そしてそれが森氏に言わせると社会学なのであり、私に言わせると人文学なのである。

 

森氏は社会学には「寄り道」が必要だと言っている。(ちなみに筑紫哲也氏は同じようなことを「道草」と呼び、昔の子どもはよく道草をしたものだが、今はしないと嘆いている。)

理工系の分野なら、いち早く成果を上げることが科学や技術の進歩にとって重要であるという発想も当然ある。社会学でも計量社会学などの分野であればいち早くデータを示すことも求められると思う。無駄な寄り道は極力避けたい。

だが、人間存在や精神、社会と人間の関係性について検討を加えるといった人文社会学では、そうではない。この種の学問では、一般に「調査・実験の結果、○○が明らかになった。発見した。」という回答では誰も満足はしない。むしろそういう設問-解答的な結論は求められていない。

例えばウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義を準備したことを明確に”証明“してみせたわけではない。”証明“ではなく、その関連性についての“知見”を示したのである。
その“知見”に一定の妥当性があるから、説得力が生まれる。その“知見”によって、世の中の人々は、経済的な要因だけではなく宗教的な要因も社会経済構造を読み解く鍵となる、という資本主義社会を理解するための新たな方法や視座を得ることになる。これが『プロ倫』の独創性である。

この場合、宗教を寄り道といって良いかどうかはわからないが、経済的な事象を検討するのに、直接関係しそうもない分野に寄り道することで見えてくることがあるということだ。人文学ではこの手の寄り道が新しい発想を生み出すことが多々ある。いや寄り道こそが発想の源泉である。

寄り道をするためには、スローであることが必要である。
柳宗悦の思想を研究するためには、直接関係のない分野へも寄り道をしなくてはならない。短期間で成果を出すために、グーグルに「柳宗悦」とキーワードを入力して得られた情報を片っぱしから読んだとしても、そこから導き出されるのは概ね一般論に過ぎない。そこからは新規の知見は導き出されない。

ある意味、人文学や社会学が目指しているのは、この一般論からの脱却であろう。人や社会は放っておくと一般論に流れて満足してしまう。だが時に一般論は社会の重要な課題を見えづらくしてしまう。一般論を抜け出して、新たな知見を示すことが、個人や社会のためになることがある。これが人文学や社会学の大きな役割だと思う。だから、人文学を研究する者は、一般論に陥らないように日頃から寄り道をしていなくてはならない。スローシンキングが求められる所以である。
本を読んだり映画を観たり、旅をしたり美味いものを食べたり飲んだり、人と会って話をしたり、かと思えば一人で何か考え事をしていたり…世の中の人文学者はこんなことを熱心にしているものだ。

大学の4年間というのは、人生の中で最も「寄り道」をしていられる時期だ。これはもちろん大学の講義をそこそこにして、あちこち遊び歩いて良いという意味ではない。大学の講義自体がここでいう「寄り道」なのである。
大学の講義では時に、自分の関心とは関係ない知識や社会の何の役に立つのかその場ではすぐに理解できない知識の伝授がおこなわれることがある。そう感じる講義があったら、それら一つ一つが寄り道だと思えばいい。だがそれが後々自分の発想力の源になる。
スティーブ・ジョブスが大学退学後、自分の興味のある授業だけに潜り込んで学び続けたというエピソードは有名だ。その授業の中の一つにカリグラフィーがある。ジョブスはただカリグラフィーの美しさに魅かれたが故に学んだという。だが、これが後々Macの美しいタイポグラフィを生み出すことにつながった。

講義では、効率やスピードを度外視して、寄り道を楽しもう。それに加えて図書館で得られる知識や、長期休暇での旅行、友人たちとの語らい、それらが加わる。

筆者が所属する学科では、経営学社会学、心理学のいずれかを専攻としながら、あえて他専攻も横断的に学べる仕組みにしている。これは一つの分野に軸足を置きつつ、他の分野への「寄り道」をむしろ推奨しているからだ。一見総花的に見えるカリキュラムだが、この「寄り道」の発想が理解できれば、この横断的な学びのシステムを120%享受することができるだろう。

ちょうど今この文章を書いている2月上旬は、卒業研究の完成時期でもある。学生たちは大体3年生ころから自分のテーマを持ち始め、研究活動を徐々にスタートさせる。卒論を完成させるまでに2年弱の時間をかける。学生にはぜひ寄り道やら道草やらをしながら、研究活動をしてもらいたいと思う。そして、先生もそれに付き合うことを楽しみにしているものなのである。

初出:2022年2月6日