KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

哲学の有用性の切実さについて(読後感想)

この週末、新刊新書2冊を読んだ。

 1冊目は高桑和巳『哲学で抵抗する』集英社新書

 2冊目は川瀬和也『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』光文社新書

いずれも気鋭の研究者による哲学に関する考察である。

 

高桑氏によるものは、カントやヘーゲルなどのいわゆる哲学史に登場するような哲学は扱わない。扱うのは、アイヌ文化研究者の萱野茂公民権運動のキング牧師など。作家のカート・ヴォネガットも登場する。

哲学史と哲学を明確に分ける高桑氏は、哲学者の思考を分析するのではなく、抵抗する人々の哲学的営みを後づけその意義を考察する。なぜ、そして何に彼らは抵抗するのか、その抵抗の背景には哲学(的思考)が存在している。抵抗は良いも悪いもない、成否も問題ではない。抵抗すること自体が知的な営みなのだという。帯にはこうある。「哲学とは知的な抵抗である」

 

一方、川瀬氏によるものはヘーゲル哲学の紹介である。大変わかりやすくヘーゲル哲学の入門書としても読むに値する。

ヘーゲル哲学の存在論、認識論、そして歴史哲学と、その哲学の背景を紹介しながらなぜヘーゲルがそのような考えをするに至ったのか、またヘーゲルが何を目指したのか、ゆっくりじっくり何度も整理しなおしながら、学部学生へ語り聞かせるように解説する。

が、この本の眼目は、ヘーゲル哲学の社会生活への応用にあると思う。著者はヘーゲルの考え方が社会を生きる我々にどのように役立つのかまで考察を加える。

たとえばヘーゲル存在論においてカント哲学などを乗り越える形で現存在(Dasine)という考え方を導出した。現存在とは「現にそこに存在している」ものそのものを指す。イデアの影でもなく、また感性と悟性によって認識されるものでもない。目の前に現れているものは、複数の性質を持ちつつ個別に存在している。一つの白い消しゴムは、白さや直方体、ゴムの質感などの一般的な性質を複数有しながら、他の存在とは区別されて個別に存在している。それが現存在だ。
我々はそのように現存在を区別(分類)して認識している。日本人は水と湯を区別して認識するが、英語圏ではいずれもwaterであるというように、その区別の仕方は社会や文化によっても異なる。(ソシュール言語学的転回を想起する)

このようなヘーゲル認識論を紹介しながら、実は現代社会においてもマーケティングの場などにおいて、この考え方が応用されていることを示す。
たとえば「アラサー」というマーケティング用語は、30歳前後という性質によって個別の存在(人々)をまとめて認識可能とする。現存在という形で個別に現れている顧客に対して、年齢層という性質によって区別することで認識することができるようになる。30代性というようなものがあらかじめ存在しているわけではなく、我々が30代前後という性質を用いて、個別の現存在を区切って理解している、ということだ。このような感じで、著者である川瀬氏はヘーゲル哲学を現代を生きる人にとってどのように応用可能であるかを示していく。

さて、年明け早々に面白い哲学系新書が2冊出ていたので、たまたま連続して読んだのだったが、ここで感じるのは、哲学や人文学の有用性に対する意識である。

人文学が実社会において無用の長物であるかのような言説が(今に始まった事ではないにせよ、より切実に)世の中に蔓延っているが、この2冊はそれに抵抗している。著者はいずれも大学教員であるが、それが一体何の「役に立つ」のかという有用性に対するプレッシャーはどの大学においても少なからず存在していることだろう。そういう圧力に対して戦う、抵抗するのもいまや人文学系教員の仕事の一つとなっている。

ただ、今回取り上げた2冊は、たんなる「有用性」以上に「実効性」というべき側面にまでこだわっているように感じられる。世間に対するレスポンスとして切実さすら感じる。

たとえば人文学は人が人間性を獲得するために必要不可欠な教養をもたらすだとか、社会全体の幸福や将来の世界像を生み出すだとか、そういった理念的な効用を言う人は多い。だが、それとは違って、川瀬氏の場合は、ヘーゲル哲学が実社会で生きる一人一人の発想やビジネスに応用可能であるということ、高桑氏の場合も、既存の社会的抵抗の基盤に哲学的な営為が存在していることを述べている。
つまり、いつか人文学は役に立つことがあると言うレベルの有用性ではなく、人文学は「すでに役に立っている」あるいは「社会で実践で使える」ということまでを強調している。先に述べた「切実さ」とはこの辺から感じるのだろう。

すぐに就活や仕事に応用可能なければ役に立つとなかなか思ってもらえないのが現代社会だ。人文学はすぐに役立つわけではないけれども、長い目で見れば必ず役に立つものだ、というようなのんびり構えた物言いは、今の社会ではなかなか許してもらえない。もちろん哲学だってこれまで社会的な実践に多く関わってきている。ヘーゲル哲学の批判からマルクスの哲学は生み出されてきているし、プラグマティズムにせよ実存主義にせよ哲学を実践の場に持ち出している。筆者が研究している柳宗悦民藝運動も同様だ。

ただ今世間一般で言われる学問の有用性=「役に立つ」は、そんな社会全体を見通す大仰なものはほとんど聞かれず、(残念なことではあるが)先に述べた通り「これを学んだら就職できて、仕事でも使えますか?」というくらいの意味合いだ。

今回の2冊はその意味で社会に対する応答(レスポンス)の試みなのではないか。と思うと「切実さ」とともにすこし「切なさ」も感じてしまう。

ちなみに理系は役に立つと思われがちだが、理系の中でも基礎科学や数学(数理)は人文学のような扱いを受けることがあるという。理学部出身の先生から理学に近い学問分野は人文学だと思いますよ、と言われたことがある。つまりは社会生活にすぐに実装されないことをお互い研究しているという連帯意識からだろう。
だが、ノーベル賞にせよ京都賞にせよ、表彰分野に基礎科学や数学そして思想・芸術をすえていることは興味深い。京都賞は、稲盛和夫の「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という言葉を理念として掲げているが、その「役立つ」分野として、先端技術、基礎科学、そして思想芸術の3分野が表彰部門として設定されている。

多くの偉人や社会的成功者たちは人文学の重要性を強調し、軽視していないものだ。逆に、人文学の重要性や有用性を理解できるということは社会的に成功する秘訣なのだと思う。
安直に有用性を問う前に、“本当の「有用性」とは何か”を学ぶ機会も必要なのかもしれない。そうするとまた「そんなことを学んで就職できますか」という声が聞こえてきそうではあるが…。