KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

古い新書

年末年始も読書三昧。
午前中、読書をして過ごし、昼食後、書店に行って本を物色する。購入した本をカフェでしばし読み、帰宅して続きを読む。大変幸せな毎日である。

年が改まって、書店の雑誌、新書コーナーには、早速大河ドラマの主人公である北条義時の文字が見える。新書で数冊、北条義時もしくは北条氏に関するものが平積みされている。日本史の中ではマイナーキャラであるが、大河となると早速このような扱いになるのが面白い。

大河に止まらず、コロナ、脱炭素、資本主義、LGBT、貧困問題、米中関係などの時事的なテーマで、専門家がまとまった分量の文章をいち早く出版するのは新書だ。

 

さてそのような新書の中から、この年末年始に読んだ新書は次の2冊。

大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書〔黄〕1977年
・内田義彦『読書と社会科学』岩波新書〔黄〕1985年

敢えて40年も前に出版された岩波新書黄版。

話題が新しいから新書と呼ばれるわけではない。とはいえ、扱うトピックは新しいものが多いし、それが新書の魅力である。
その一方で、岩波新書の場合、現行の新赤版ではない、青版や黄版の「古い新書」が根強く版を重ねている。

実は(特に最近)「新しい新書」よりも「古い新書」にとても心惹かれている。今回の2冊は70年代、80年代に刊行され、40年間、何十回も版を重ねながら今なお読み継がれているもの。

新書の読み方として、たとえば池上彰氏や齋藤孝氏といったベストセラー作家の読みやすい新書をどんどんこなしていくのも良いと思う。勉強になるのは確かだ。
ただ、ちょっと失礼な言い方になってしまうが、それは今必要な知識や教養であるのは間違いないのだけれども、数年、数十年経った時に改めてその知識をもとめて読み返すだろうか、と問われれば、どうだろう? 数年後、数十年後には、また別の知らないと恥をかくその時代の知識があるだろうし、別の作家が同類の新書を出しているような気もする。

岩波新書の旧赤版、青版、黄版はそれとは意味合いが違う。
書かれている知識は(勉強にはなるが)すでに古い。

が、なんというか、知識よりも、先人の熱量や、メッセージのようなものがひしひしと感じられる。スゴイ先生に出会ったような、学生時代に戻った心持ちになる。

例えば、内田義彦の以下のようなヒューマニズムはすごい。

いま問われているのは人間の知恵です。そして、いま求められているのは、人間の知恵を真に知恵たらしめるに足る有効な学問の創造です。なかでも、人類の経験すべてを汲みあげ目的に向かって動員しうる知恵才覚と技術をーー天才者だけにではなく、われわれ、並の人間にも努力するかぎり修得可能な形でーー与えてくれる真の経験科学の創造をと、経験科学に携わる一人としては、つけ加えましょう。誇らかな自負の念からではなく、責任として。(p.98)

大家と呼ばれる人のひたむきな姿勢は心を打つ。先人はこうやって一生懸命学問に取り組み、自分の主義や思想を世の中に伝えようと努力して語っていたんだな、と。

「古い新書」で感銘を受けるのはこういうところなんじゃないか。

「古い新書」は今必要な知識を得るためというよりは、過去のすごい熱量を受け取り、学問や社会、人間に対する姿勢、ヒューマニズム、心構えといったことを学ぶために読む必要がある。逆にそれがない知識だけの本であれば、これだけ版を重ねる必要はない。

そういった淘汰を乗り越えてきたのだから、古典と呼ぶにふさわしい。

こういう本を読むのもいい。特に年末年始には。