KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

『プロ倫』から神秘主義を経て民藝論にいたる

その後も学生たちと『プロ倫』を読み続けている。ちょうど第二章に入ったところで、いよいよ禁欲的プロテスタンティズムの分析に入るところだ。

この本を読みながらつくづく思うのは、欧米の学問にはキリスト教の知識が必要不可欠ということ。宗教改革カトリックプロテスタントの分裂、ルターやカルヴァンくらいまでの知識は誰でも持っているだろうが、敬虔派、パプティスト、メソジスト、分離派、クエーカーなどなど諸宗派の違いについては、キリスト教に普段馴染みのない人にはなかなかピンとこない。それらの諸宗派の教義まで理解しようとすれば(『プロ倫』を読むなら当然そこまで理解しなければ意味がない)、キリスト教神学についての最低限の知識も求められる。
さまざまな知識の紹介、整理、確認をしながら、わずか数ページを慎重に読み解き進める。寝ながら斜め読みの対極にある、時間も手間もかかる贅沢な読書様式だ。

さて、そうして『プロ倫』を読み進めながら、ふと自分がこれまで興味を持ってきたテーマとリンクする箇所に引っかかった。一見、自分のテーマと離れているような本を、外から与えられる形で読むことで、思わぬヒントを得る。セレンディピティである。この“引っかかり”を得ることが、実は、この手の読書会の真の目的でもある。

そのテーマとは“神秘主義”である。ルター派に関するくだりで「神秘的合一」という言葉が登場する。キリスト教では、しばしばある人物の心に神やキリストが現れたという神秘体験が語られる。時には、その間人は意識を失い、エクスタシー状態となることもある。こういった神との融合体験が神秘的合一だ。*1
神秘体験は当事者にしか理解し得ない。本当にそんな奇跡的なことが起こったのか、どうしてそのようなことが起こったのか、合理的な説明を他者にすることができない。神の思し召しは人間の理解を超えているわけだから、言葉を尽くしてもそれを説明することも、理解することもできず、ただ神が心に現れ語ったというしかない不可知論。時には聖痕が現れるといった身体的変化も語られるが、それは何か言葉では言い表し得ない神秘体験を外面化する一つの方法として語り継がれてきたことなのかもしれない。

私が長らく研究の対象としてきた柳宗悦の民藝論は、実は神秘主義的な思想といっても良いものだ。ここで『プロ倫』が“引っかかった”。

芸術家ではない工人が生み出す日常雑器がすなわち民藝であるが、柳はそこに美術品とは異なる美の世界があることを主張した。これが民藝論である。民藝論といえば即物的な印象を持たれるかもしれないが、以下に述べる通り、この思想には神秘主義が底流している。

柳が初めて民藝論をまとまった形で文章にしたのは、1926(大正15)年に発表した「下手ものゝ美」*2という一文である。その序で、柳は次のように述べている。

 無学ではあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ何を信ずるかさへ、充分に言ひ現はせない。併しその貧しい訥朴な言葉の中に驚くべき彼の体験が閃いている。手には之とて持ち物はない。だが信仰の真髄だけは握り得てゐるのだ。彼が捕へずとも、神が彼に握らせてゐる。それ故彼には動かない力がある。
 私は同じ様な事を、今眺めてゐる一枚の皿に就ても云ふ事が出来る。それは貧しい「下手」のものに過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度もく唱へる様に、彼は何度もく同じ轆轤の上で、同じ形を廻してゐるのだ。美が何であるか、窯藝とは何か。どうして彼にそんな事を知る智慧があらう。だが凡てを知らずとも、彼の手は速かに動いてゐる。名号は既に人の声ではなく神の声だと云はれてゐるが陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だと云ひ得るであらう。彼が美を工風せずとも、自然が美を守ってくれる。彼は何も打ち忘れてゐるのだ。無心な帰依から信仰が出てくる様に、自から器には美が湧いてくるのだ。私は厭かずその皿を眺め眺める。

柳はここで、平信徒が無心に名号=「南無阿弥陀仏」を唱えるように、民藝を作る者=陶工も無心に轆轤(ろくろ)を回している様を思い描く。熱心な信仰心から発せられる名号はすでに「神の声」であるのと同様に、無心にものを作る陶工の手は「自然の手」であるという。神が信徒の信仰心を守る様に、自然が陶芸の美を守る。民藝の美はそこに宿るのである。

民藝論は仏教哲学*3が基軸の一つとなっているが、「神」という言葉が用いられているように必ずしも仏教哲学に限定されない独特の宗教美学である。*4

また、信徒を神が守るのに対し、陶工を自然が守るという類比にも注目すべきだ。神=自然という図式はアメリカ・ルネッサンスを代表するエマソンの自然観が反映されている。

エマソンは18世紀の人物。プロテスタント・ユニテリアン派の牧師であったが、形式主義に対する嫌悪感から牧師の職を辞して思想家へと転じた。彼の思想を特徴づけるのはまさにその自然観だろう。エッセイ「自然 (Nature)」では、自然の中に溶け込み、そこで神=宇宙と一体化するという感覚が語られる。

むき出しの大地に立ち、いっさいの卑しい自己執着は消え失せる。わたしは一個の透明な眼球になる。いまやわたしは無、わたしにはいっさいが見え、「普遍者」の流れがわたしの全身をめぐり、わたしは完全に神の一部だ。*5

上は「自然」の中の有名な「透明な眼球」として知られる一節である。一読して、神秘体験を語っていることが理解される。

柳にエマソンを伝えたのは、学習院高等科時代の恩師で英語教師、服部他之助である。服部はエマソンをリーダーとして教え子たちに与えていたという。また生物学者でもあった服部は、毎年、赤城山に調査のため滞在していたが、その際柳宗悦志賀直哉らの白樺派メンバーも同行していた。柳は服部に導かれて、赤城の自然を前に、エマソンが語った神の摂理としての自然や宇宙を感じ取る神秘的な感性を身につけた。

「自然」には、「普遍者(the Universal Being*6 )の流れ」という表現も見えるが、これにはプロティノスの「一者(to hen)」の思想と同じものが読み取れるだろう。

そして、柳もしばしばプロティノスに言及し、「一者」という概念について考察を加えていることは興味深い。プロティノスは、一者との合一がエクスタシーをもたらすと説いた古代ローマのネオプラトニストである。柳はプロティノスをはじめとする西洋古代神秘主義、ついでヨーロッパ中世キリスト教神秘主義の考察を経て、「即如」という独自の用語を生み出すに至っている。「即如」とは美的対象や宗教的対象に対して、理性を挟まず、直接合一化して感じとる感覚を示している。民藝美感得の肝となる感覚である。

もう一度「下手ものゝ美」にかえろう。
民藝の作り手である陶工自身は「美が何であるか」を理解しないままに無心に轆轤をまわす。それ故に、生み出されるものには自ずから美が湧いてくる。なぜなら、自然すなわち「神」*7が陶工に流れ込むからである。陶工はまさしく「神秘的合一」を果たしている。「何も打ち忘れてゐる」陶工はいわばエクスタシーにある。柳は民藝美が生み出される場をこういうイメージで語っているのである。

古代ローマ神学が、中世キリスト教神学に結びつき、宗教改革アメリカ・ルネッサンスを経て、昭和初期の民藝論に流れ込む。壮大な知的系譜だ。*8

柳の自然観と神秘主義については、昨年論文にまとめている。
今はいったん別のテーマに関心を移していたが、『プロ倫』を読みながらふと神秘主義が頭をよぎったのであった。
そして、まだまだ書き足りないことがあったな、と改めて気づくのである。

旅先で二千円程度で購入した民藝のカップでコーヒーを飲みながら今このブログを書いている。なるほど柳のいう民藝美はこういうことかな、と思い、眺める。たった一つの器からだけでも、これだけの知的系譜を感じ取れるとは贅沢極まりない。

公開日:2022年1月29日

改訂日:2022年1月31日

*1:聖人誕生譚にも登場する。心に現れた神やキリストが、キリスト教徒としての生き方を語り、意識が回復した時には、新しく生まれ変わっている、つまり回心しているといった体験だ。

*2:「下手もの」とは「上手もの」の対義語であり、いわば「日用品」という意味である。ただ誤解を生みやすいという理由で、後に「雑器」という言葉に改めている。「下手ものゝ美」というタイトルも、その後は「雑器の美」と改められている。

*3:特に柳は浄土系、一遍上人に注目している。

*4:この東西を問わない汎宗教的な立場は、柳の師の一人である鈴木大拙の影響を思わせるし、西洋と東洋の融合を目指す柳の思想背景には、ウィリアム・ブレイクバーナード・リーチの影響が読み取れる。

*5:エマソン論文集(上)』岩波文庫,p.43

*6:the Project Gutenbergで「自然」の原文を読むことができる。https://www.gutenberg.org/files/29433/29433-h/29433-h.htm

*7:あるいは「普遍者」、「一者」と言い換えてもよい

*8:むろん民藝論は、これだけではない。浄土仏教、禅といった仏教哲学や日本の伝統文化に関する知識の役割も大きい。柳の膨大な蔵書は、和書・洋書・漢籍がそれぞれ三分の一ずつで構成されているという。

カズオ・イシグロの言葉

カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したのは2017年のこと。すでに5年も前のことである。

今では日本中にこの作家のファンがいる。日本にルーツを持つということで、日本人ノーベル賞受賞者として大きな話題を呼んだ。ただ、私がこの作家のことを気にするようになったのは、受賞前のことである。

代表作『日の名残り』(1989)は有名だし、映画(1993)も観てはいた。『私を離さないで』(2005)は日本で舞台化もテレビドラマ化(2016)もされている。だが、これらの作品ではなく、実は2015年にNHKEテレで放送された『カズオ・イシグロ 文学白熱教室』*1という講演動画が、そのきっかけだった。

当時、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』が人気を博していた。一流の知性が、学術について学生と熱く語るというのが、一種の流行りになっていて、類似番組もいくつか放送されていた。
イシグロのそれも流行りに乗っかった企画だったのだろう。

知性ある人が、何かについて熱心に語っているのは、聞いていて胸を打つ。これからもこういった企画番組は作られていってほしいのだが、流行はどこにいってしまったのだろうか。

ところで、文学を学んだことのある人ならば、誰しも一度はこんな質問を投げかけられた経験があるだろう。

「文学を学んでどんな意味があるのか?」

文学自体、定義は時代によって異なるし、現在のような意味で用いられるようになってせいぜい200-300年程度しか経過していない。加えて、文学といってもさまざまな側面も、捉え方、立場もあり、上記の質問に咄嗟に答えるのは非常に難しい。

相手がどのような知識を持ち、どのような前提で問うているのかを探りながら、曖昧な回答をしてみたり、どうせ理解されないだろうからとお茶を濁してみたり。

意味があると思って勉強しているのは確かだが、実はこの一番基本的な質問が最も回答のやっかいな質問でもある。生きることや働くことに意味が見出せない人に、その意義や素晴らしさを納得してもらうことが恐ろしく難しいことであるように。

小説に代表されるような文学*2とは、それが高尚な文化であると感じられつつも、どこか現実離れしている空想の世界のように感じられている。小説が何か重要なメッセージを読者に送っているということはわかるが…。であれば、フィクションではなく現実に即して直接メッセージを伝えたほうがよくはないか? なぜ小説の形態で伝える必要があるのだろうか?

ところが、「文学白熱教室」におけるイシグロは、この手の質問に、自信たっぷりに、堂々と、そして明快に語っていた。その姿に感動を覚えたのである。

放送を見ながら私はとっさにカズオ・イシグロの言ったことを書き取った。

イシグロは次のように語った。

小説は「事実」ではない。つまり「虚構」である。だが、嘘ではない。嘘は人を欺くものだが、小説は人を欺くものではない。

人は「事実」を知るだけでは満足しない。西暦何年に戦争があった、というような「事実」を知るだけでは何かを理解したことにはならない。そこで人がどのような感情を抱いたのか、までを理解したいのだ。

小説は「事実」ではないことを描く。しかしその中に描かれる感情には、人間や社会の「真実」が描かれている。

小説を書き、小説を読むとは、感情を分かち合うということだ。

人間は社会で経済活動をするだけでは不十分なのだ。心情を分かち合う必要がある。

イシグロのこの確信に満ちた言葉はどうだろう。

人間は経済活動だけでは生きていけない。人間は感情を分かち合わなければ生きていけない存在だ。そのために小説は、文学はある。イシグロはそう説く。

経済成長の限界が指摘され、脱資本主義という検索ワードが急浮上し、未来の人間や社会のあり方が模索され議論されて久しいが、文学の立場から人間存在の根本に関わるこのような力強い言葉が発せられるとは。

たしかに、経済成長率やGDP、株価などを示す数値は社会の「事実」を示しているかもしれない。だが、そこに人々のどのような生活があるのか、人々が何を感じ、何を望んでいるのか、という人間社会の感情をそこから読み取ることは難しい。

文学は社会のその感情への理解という部分を担っている。そしてこれからの社会を考えるとき、経済や環境の心配をするのと同じ程度に、あるいはそれ以上に、人々の感情を考える必要があるのではないか。コロナの時代を経て、社会はむしろ今こそイシグロの言葉を理解し始めるのではないだろうか。

 

今はイシグロのいう小説を広く人文学の役割として私は受け取っている。

人々の感情を理解し、社会がどうあるべきかを考える学問としての人文学は、いわば人々の「感受性」や「共感」を問題にしている。

「文学を学んでどんな意味があるのか?」

という問いを発する人には、今なら、文学は人々や社会の感受性や共感の発展を考える学問で、それは人間社会に必要不可欠な学問なのだ、と答えるだろう。

7年も前に観たテレビ講演の一つの言葉をいまだにPCに保存して時々読み返している。イシグロの言葉は人文学を学ぶものの心に火を付ける、まさに「白熱」した言葉だ。

この言葉を読み返すたびに、少し心が熱を帯びる。週末、この言葉をまた読みかえしたのである。*3

公開:2022年1月23日

 

 

*1:DVDが発売されているので、今でも見ることができる。私の研究室にも所蔵しているので、見たい人はお越しください。

*2:「代表」と言ってしまったが、もちろん文学は小説に限定されるものではない。詩も戯曲もある。フィクションにも限定されない。ルポルタージュ、伝記、紀行文学、環境文学などノンフィクションに分類されるものもある。その上、こういったいわゆる文芸とされる分野にも限定されない歴史と定義の広がりを持つ。ただ、文学というと、何か小説のようなフィクションを読んでいるものと一般に思われてしまう。

*3:こういうことは、大体2〜3日おいて少し冷静になると、書きすぎたなと思うもの。数日したら少しトーンが抑え目に書き換えられているかもしれない。

もし、本をどうやって読んだら良いかわからない、と大学一年生に問われたら

大学生がなかなか本を“読まない”と言われて久しい。
すでに一般論になってしまっているし、月の読書時間が0分という学生が50%近いというデータ*1もあるから、ひとまずそういう前提で考えてみたい。

ところで、このブログ記事では「読まない」ということと「読めない」ということを区別して捉えるところから始める。

「読まない」のと「読めない」のとでは大きな違いがある。

「読まない」のであれば、どうすれば読書に対する関心を持ってもらえるかを考えることになるし、
「読めない」のであれば、どうすれば読めるようになるのか、方法や考え方をどう助言すればよいか考えることになる。

世の中の一般論は、「読まない」大学生を案じている傾向がある。

 

だが一方で、自分の接する学生たちをみていると、読みたくても、読んだ方が良いとわかっているけど、うまく読めず、結果的に読まないでいる、という「読めない」学生も一定数いるように感じる。

 どんな本を読んだら良いのかわからない
 読もうと思うけれども集中力が続かない
 どういうところに注意して読めばよいのかわからない
 書かれている内容を把握するまでに時間がかかる
 いくら読み込んでも内容がピンとこない
 せっかく読んでも読み終えた時に頭の中に内容が残っていない
 いろいろ本がありすぎて読みきれない

「うまく読めない」と感じる人はこう言う症状を抱えているのではないだろうか。自分にも同様の経験がある。
本読みたいのだけれども、うまく「読めない」という学生がいれば、教師の出番である。教師として何か手助けできないか、最大限考えたい。

 

上記の各症状にはそれぞれ処方があると思うが、さしあたり総合感冒薬的に次の本をお勧めしたい。

 平野啓一郎『本の読み方 スローリーディングの実践』PHP文庫、2019

もし、本をどうやって読んだら良いかわからない、と学生に問われたら、手始めに、この本をまず読んでみなさいと、答えたい。*2

平野啓一郎氏は小説家。1998年に『日蝕』でデビューし、翌年同作品で芥川賞を受賞している。当時23歳で最年少受賞だった。その後小説家としての活躍に加え、文化評論や社会問題への発言なども多く、この世代の文壇人としては最も勢いも影響力も発言力もある人物の一人だと思う。*3

その平野氏が書いた読書論である。この本が書かれたのは2006年。PHP新書から刊行されている。現在は文庫化されて読み継がれている。今なお読む価値のある読書論だ。

 

この本は、基礎編、テクニック編、実践編の3部構成になっている。

基礎編では、本を読めるようになるための考え方を、かなりわかりやすく示している。大学生でこれも読めない、理解不能という人はほぼいないだろう。*4

平野啓一郎氏は相当な知識人であるが、実は結構なスローリーダー(遅読家)なのだそうだ。
ものすごい勢いで次から次へと本を読みこなしていくタイプの人ではないらしく、限られた本をじっくりゆっくり読んで理解する。量より質。速読に対しては否定的な立場をとっている。*5

そしてこの基礎編では、本を読めているとはどういうことなのか、どういう状態なのかを示し、さらに本を読めるとどんないいことがあるのかを説いている。
理念的なことを語っているが、先にも書いた通りかなりわかりやすい。平易な文章である。そして腑に落ちる。この章だけを読んだとしても価値がある。

 

この本のお勧めしたいもう一つの理由は、サブタイトルにあるとおり、「実践」を示しているところだ。

「実践」を示すことは学生には特に大切な要素だと思う。

テクニック編では、実際に小説や論説文の読み方について説いている。
まずは本に書かれていることを「正しく」読む。これが大前提だ。この場合の「正しく」とは筆者の言いたいことを正確に理解すること。読み間違い(誤読)を避け、難解であってもじっくり読み解いて筆者の意図を探る、地道でスローな読書を通して「正しさ」に迫る。

平野氏は京都大学法学部を卒業している。大学受験を戦いぬいた経験などを通してこのテクニックを磨いてきたのだろう。ある意味、大学受験生の現代文対策用テキストとして読んでもらっても良いくらいだ。*6

読書とは、書いてあることを「正しく」理解した上で、それに自分の考察や感想などを重ね合わせ、自分だけの「読み」に昇華していく行為である。わざわざ本を読む意義はそこにある。この「読み」が自分の知識、思考の血肉になる。

だから、早く読んだり、量を誇ったりする以前に、「正しく」読めるということを第一に追求しなければならない。本が読めるには「正しく」読解するテクニックとトレーニングが必要だ。*7

実践編では、平野氏が実際に本をどんなふうに読み進めていくのか、思考のプロセスを見せてくれている。
扱っている本(テクスト)は、漱石、鴎外、カフカ三島由紀夫川端康成金原ひとみ平野啓一郎フーコーである。平野氏の読解力の高さを確かめることができる。ただ、サンプルが小説に寄っているのが個人的には少し残念ではある。文学好きの学生にはよいが、そうではない学生にもこの本を読んでもらいたいからだ。その意味で、最後にフーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』を扱っているのは面白い。大学で難しい理論書にチャレンジする場合の参考になるだろう。

 

まずはこの本のアドバイスに従って、何か自由に一冊、じっくり読んでみてはどうだろう。
おそらく、その一冊読むだけでも、本をどのような感じで読み進めれば良いのか、といった疑問がある程度解消し、「読める」とはこういうことかと、読解力の向上を実感できるのではないかと思う。即効性の期待できるアドバイスが示されていることがこの本の魅力だ。
念のため補足しておくと、ある段階で「読めない」から急に「読める」に変わるわけではない。少しずつ変化し、気づいたら読めるようになっていた、となるのが一般だろう。ただし、平野氏の本を踏まえて読めば、もしかするとその変化を実感できる可能性がある。それを実感できれば、その後の読書行動は変わるはずである。

 

さて、この本を再読して、改めて思うのは、大学受験の国語(特に現代文)の重要性である。
英語や数学に比して、国語は勉強法としては確立していない(ように見える)。勉強といっても過去問を解いてみるくらいだったり、また模試でもなぜ模範解答がそのようになるのかもあまりピンとこないまま、やりすごしたり。そういう勉強をしている受験生も少なくないだろう。日本語話者だから勉強せずとも国語はある程度できるはず、異常に国語ができる人は特別な言語センスのある人、と思われている節もある。

だが、このような考え方を平野氏は否定する。国語問題には解く方法がきちんとあるのだ。
国語問題の場合は、問題文本文の筆者の他に、問題の作題者がいる。国語問題とは、本文筆者の考えを正確に理解しつつ、その本文を用いて問題文を作成した作題者の考えも正確に理解する必要がある。

言われてみればその通りで、問題文の後半は、作題者が作成した文章で構成されている。受験生はそれらも含めて、正しく理解することが求められているということになる。

 

入試問題の話は余談だが、現代文の入試問題と取っ組み合ってきた学生とそうではない学生とでは、入学時点で読解力に差ができていることは、平野氏を説を聞いていれば容易に想像できる。
であれば、早いうちに「読めない」学生は読めるようにならなければ、そして「読まない」学生も読むようにならなければ、「読める」学生との間で、知識の量も考え方の質も、大学4年間でどんどん引き離されていくことになる。*8

本を読めるかどうかは、大学生活のみならずその後の人生の充実度も左右する。大学時代に本を読めるようになっていれば、その後も着実に知識や見識を積み上げていくことができる。
だが、本を読むことができるようになっていなければ、その後の積み上げは見込めない。10年後、20年後、他の同輩たちとの差という形で重くのしかかってくるはずだ。後輩や若手たちから教養のない人だと軽くみなされてしまうようになるだろう。

もし大学入学段階で本が「読めない」という状態であるならば、ここで挽回しておかなければならない。
そのために、私の講義の他に、平野先生の講義も併せて受講しておくことをお勧めする。*9

公開:2022年1月14日
改稿:2022年1月15日

 

*1:全国大学生協連が毎年学生生活実態調査を行っており、その調査項目の一つに読書時間に関するものがある。https://www.univcoop.or.jp/press/life/report.html

*2:ついでにこのブログ記事も勧める

*3:平野氏の小説もお勧め。有名なのは映画化もされた『マチネの終わりに』2016だが、個人的には『ある男』2018をお勧めする。

*4:もし本当に読めなかったら、このブログもすでに理解不能だと思う。そういう人には特別講義を開講する必要がある。

*5:このブログで、一日一冊主義を貫いていた時期があったことを書いたが、平野氏からは否定されるだろう(笑)https://t-kajiya.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193002

*6:テクニックを身につけたいのであれば、西岡壱誠『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書』東洋経済新報社、2018も参考になる。ただ、読書を単にテクニックの問題、実用的な問題であると捉えてほしくはない。『東大読書』もその点踏まえてはいるが、なにぶんお手軽なハウツー本のような体裁になっている(さらにマンガ化までされている)ので、実用的な読み方だけをされないか心配である。平野氏の新書のような読書の理念的な部分を理解してからのテクニック論であると思う。

*7:読書において読解の「正しさ」が重要であることは多くの読書論者が論じている。たとえば内田義彦『読書と社会科学』岩波新書。正しい理解なく速読して読書量を稼いでもあまり意味はない。もちろん、子供の頃に夢中になって次から次へと物語を読む、いわゆる乱読を否定するつもりもない。ただ、ここでは大学生が知識・教養を身につけるための読書について述べている。

*8:もちろん読書以外にも知識や考え方を身につける手段はある。読書だけを特権化するつもりはない。むしろ読書以外の経験も重要だと考えている。
ライフネット生命創業者で立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏は人間形成において「人・本・旅」の重要性を説いていて、筆者もそれに共感している。
つまり、本を読めるようにならなければならない、というだけではない。本はもちろん読むし、それに加えて多くの人との交流をもち、さまざまなところに自分で出向いて見聞を広めることを学生時代に行ってほしい。ただ、その前に、本を読めない、読まない、という時点ですでに人間形成のための大事な要素を一つ欠いている、と思うのである。この話題についてはいつかまた別に書きたいと考えている。

*9:同時に、私の講義でも、今後初年時の読書教育をさらに充実させたいと考えている。

禁欲についてープロ倫からミニマリズムへ

昨年の末頃から、教え子たちと語らって読書会を始めた。強要したわけではなく、どちらからともなく始めてみようかという話になってのこと。
私も大学生の頃、いろいろな読書会、勉強会に参加していたが、今もこういう学生がいるんだな、と懐かしい気持ちになる。

さて年が明けたら一冊古典的な名著を読んでみよう、という話になり、選んだのがウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*1

第1回目は第1章第1節と第2節。

自分の手元の本の奥付を見ると1998年の版で、大学院生時代に買ったもののようだ。

一度読んだ記憶はあるが、あらためて読み返してみると、当然細かな点で新たな気づきがある。古典が古典である所以である。
ウェーバーはこんなに慎重な論理の展開のしかたをするのか、とか、マルクスを意識した記述をこんなところでしていたな、とか。

ところで、この機会にウェーバーが「資本主義の精神」を有した人物の代表として挙げているベンジャミン・フランクリンの自伝も読んでみた。
『フランクリン自伝』*2は、アメリカの自己啓発書の元祖的なテクストである。
自叙伝ではあるが、途中「勤勉industry」「節制temperance」などの13の徳目を説く。自己啓発書的な性格の本だ。
この精神が近代資本主義の発展にマッチしたというわけである。
この本は資本主義国家アメリカの倫理観や生活規範に大きな影響を与えてきた。

アメリカだけではない。
『フランクリン自伝』は、戦前の高等学校の英語副読本として日本でも広く読まれたもので、100年くらい前の日本の若者の思考にも大きな影響を与えた。

この本が日本に紹介される前、明治4(1871)年には英国人サミュエル・スマイルズの『自助論(原題:Self-Help)』がベストセラーとなっている。当時は中村正直訳『西国立志伝』というタイトルであった。
『自助論』は、西洋の成功者列伝の書。志を持って努力を重ねることの重要性を説いている。
この本は日本で何度も翻訳しなおされ、出版社を変えながら、今だによく読まれているのだから、日本人の「勤勉をよし」とする精神の一部に、『フランクリン自伝』も含めこれらの本は少なからず流れ込んでいるはずだ。

それにしても日本人は自己啓発書が大好物である。その辺について社会学的に論じた研究に、牧野智和氏の『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探求』(2012)、『日常に侵入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ』(2015)の2冊がある。

牧野氏の本のタイトルにも現れているように、現代日本自己啓発は、精神的な修養にとどまらず、片づけや生活様式といった物質的(身体的)な側面の変革にも及ぶ。

断捨離(やましたひでこ)、片づけ(近藤まりえ)、ミニマリスト(佐々木典士)など、今世紀の日本の自己啓発思想(?)には形式重視、身体生活形式を整えることが精神面を整えることにつながる、という発想が強い。

また、身体や身辺(生活)を整えるというこの発想は禅に起源の一つを求めることができるだろう。禅僧で大学教授、日本庭園デザイナーという多彩な顔をもつ升野俊明氏の本も非常に人気があるが、上記各氏が受け入れられることとその土壌を同じにしていると思う。

禅的シンプリシティは日本人には馴染みが深いが、世界中にもその価値観は広まっている。スティーブ・ジョブスがすぐ思い浮かぶが、たとえばシンプルなライフスタイルを説いて世界的に人気を博しているブロガーであるレオ・バボータのブログサイト名は『Zen Habits』*3である。

バボータの著作『減らす技術(原題:The Power of Less)』*4は、本質に集中しその他の狭雑物を取り除くことが、人生を豊かにする秘訣であると説く。

MORE(より多い)を求める欲望を抑え、管理し、飼い慣らし、LESS(より少ない)を目指すこの“禁欲的”な態度がこの10年このかた、一つの潮流になっているといっていいだろう。

さて、ここでウェーバーの話に戻ってくる。

経済学者でありウェーバー研究者である橋本努氏は、最近『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』という興味深い著作を上梓した。
橋本氏は近代以降の消費のスタイルを、「近代」は大量生産による享楽的消費、「ポスト近代」において記号的付加価値の追求と欲望の肥大化と整理した上で、現在は「ロスト近代」であり自己の可能性の開発に関心が向かうという。
当然その背後には、資本主義経済がもたらした現状への危機意識が働いている。環境問題、格差社会、グローバリゼーション。

『欲望の資本主義』がNHKの正月恒例番組となっているが、まさにこの欲望が暴走した社会に対する危機意識である。

このロスト近代に登場するのが橋本氏がいう「消費ミニマリスト」である。彼らのエートスは物欲ではなく、自己研鑽に向かう。それはウェーバーのいう禁欲的プロテスタンティズムエートスと重なり合う部分がある。*5

プロテスタンティズムミニマリスト、いずれも禁欲的な消費行動を良しとする。
フランクリンの13徳の筆頭第1徳は「節制」であり、そこでは「飽食と暴飲」を戒めている。
ほうっておけば人間は欲望のままに暴走してしまう。
それを抑えるために“禁欲”が持ち出されるがその倫理の土台となるのが、プロテスタンティズムであったり、禅であったり、宗教的なエートスであることは興味深い。

欲望をいかに律するかは人間社会の永遠のテーマである。そして欲望だけが近代資本主義社会の原動力になってきたというのではなく、禁欲も一役買っているという点は改めて考える必要がある。今、COVID-19ウィルスのために人々はさまざまな禁欲を強いられている。だが、こうした外圧的禁欲の環境下でも人は欲望を枯らすことはない。禁欲を強いられる社会状況下で、人は欲望をいかに満たすか知恵を絞ることをやめはしない。

一方で宗教は内発的禁欲ということになろう。自己啓発によるミニマリズムもそれに連なる内発的な禁欲と言って良さそうであるが、自己の成長や洗練された生活を目指す意味で、精神的には貪欲にも見える。物質的な消費に対しては禁欲的であっても、自己投資という精神的な消費にはむしろ惜しまず、貪欲な姿勢を見せる。これを禁欲と捉えるのか?(物質面では確かに禁欲的あろうが…)人間の欲望をどの方向に振り向けるのか、という問題であるようにも思う。

人間や社会にとって“禁欲”とは何か。そして禁欲は何かを打開する力となるものなのか。難しい問題である。

学生たちと読書会を続けながら、もう少し考えてみることにする。

2022年1月15日改稿

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳

*2:松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957改版

*3:https://zenhabits.net/

*4:ディスカバー・トゥエンティワン、2009

*5:ただし、橋本氏は、消費ミニマリストはロスト近代の時代に登場した人々であるという指摘はしても、それが直接「脱資本主義」につながるわけではないと指摘している点も見逃してはいけない。

一日一冊主義という修行

学生時代、一日一冊本を読むと決めて過ごしていた時期がある。もう30年近くも前、大学3年の頃のことだ。

読書は当時から好きだったけれども、どちらかと言えば、自分の無知に対するコンプレックスから始まったチャレンジだった。とにかく何かの知識が得られる本であれば手当たり次第に一日一冊読む。文学部だったし文学作品が多かった記憶がある。

文学作品は200ページほどの文庫程度であれば数時間で読み切ることができる。一方、本当は哲学・思想も読むべきと思いつつ、こちらはなかなか簡単にはいかず。だからこの分野では入門書的な本をなんとか読んでいた。

最初の2-3ヶ月は意気込んで続けていたが、当然少しずつ勢いも衰える。とにかく読み終えるということが第一で、薄い本を選ぶようになったり、そのうち大衆的なミステリなども古典であればよしなどと勝手に自分ルールを作ったり。

数だけこなしても仕方がないし、一日で読むことを優先するよりも、数日かけてじっくり味読したほうが当然質的な価値はある。そんな感じでこのチャレンジは半年を過ぎたくらいで自然消滅した。*1

それでもこういう決め事をして、量にフォーカスして読んでみることは、自分を鍛えるのには良い経験だったと思う。今でも少し時間的に余裕がある時期など、毎日一冊以上読むことにして、集中的に読書することもある。
また文庫本や新書の読みやすいものは、今でもだいたい2-3時間で読了する。現在、自分は研究を仕事とする人間になり、1日1冊どころか、2冊でも3冊でも読まなけれならない。結果として良い読書習慣が身についたのは間違いない。

 *

ところで、最近いろいろ理由があって「読書論」をいくつか探して読んでいる。
たとえば加藤周一『読書術』。
加藤も若い頃、一日一冊主義で読書していた時期があったと述懐している箇所があって、それで自分の学生時代を思い出したわけだ。

ただ、加藤の場合は高校生の頃であり、その本も思想・哲学書を読んでいたらしいから、私の読書経験とは比較にならないが。けれども、興味深いのは加藤も大体一年程度で私と同じような理由でこの主義を放棄したということ。現代日本を代表する知の巨人もまた、一日一冊主義を通り過ぎて、その後の読書習慣を確立していったのかと思うと少し心強い気がする。

 

この『読書術』は1962年初刊(光文社)で、すぐベストセラーとなり、その後1993年に岩波書店同時代ライブラリーに収録、そして2000年に岩波現代文庫として現在まで読み継がれている。私が古書店で手に入れたこの版は、2019年の第24刷、大ロングセラーである。

加藤によれば、高校生に向けた読書啓蒙の書としてやさしめに書いたのだそう。語りかけるような文体で、とにかく読みやすい。それこそこの本は一日で読了した。

同時に、少しナナメからの持論が面白い。たとえば、難しくて理解が難しい本は、著者自身もよくわかっていないからで、そういう本は読まなくても良い、だとか、読んでいない本でも読んだふりをするというようなスノビズムはむしろ望ましい態度だとか…。

ちなみに、「スノビズム」(読んでいない本を読んでいるふりをする俗物根性)の反対語は「ドーセバカイズム」(どうせ無知ですよ、すみませんね、という開き直り)なんだそう(笑)

なんでも読んでいてなんでも知っているという「博覧強記主義」は望ましいけれども、この書籍で溢れかえっている現代社会ではそれは現実的ではない。だからといって「ドーセバカイズム」で開き直られては今度は逆に無知な人間で溢れかえる。であれば、「博覧強記主義」と「ドーセバカイズム」の間に、読んでるふりをする「スノビズム」があっても良い、いや、むしろそうすべきだ、という理屈。
本当に面白い。

ところで、どうして『読書術』について語っている本で、読んでいないことを肯定するトピックが含まれているのか? それは単に読書初心者の興味を惹きつけるためだけではない。

加藤が言うには、

世の中には数えきれない本が存在する。それに対して仮に一日一冊主義を生涯続けてもせいぜい2-3万冊しか読むことができない。東京都立中央図書館の蔵書のせいぜい1%にしかならない。つまりどんな多読家でも99%は諦めなければならない。100冊の中からこの1冊を読むと決める、ということは、残りの99冊を読まないと決める、ということに等しい。

全く身につまされる言葉である。

一冊本選んで読むということは、その一冊以外の数多ある読みたい本を諦めるということを意味する…。
積読状態の本を我慢しながら、一冊入魂で読む、ということ…。

確かに読書の境地を言い得ている。

一日一冊主義は、読書におけるこの禅的境地を体得するための若き日の修行であったのかもしれないな、とこの本を読みながら懐かしく思い出す。

 

読書術 (岩波現代文庫)

*1:ちなみに、当時一日一本映画を観る、というようなチャレンジもしていた。理由は同じ。BS映画を録りためたり、数日おきにレンタルビデオ店に通ったりしていた。どうも、こういう修行的な取り組みが好きな性分のようである。

古い新書

年末年始も読書三昧。
午前中、読書をして過ごし、昼食後、書店に行って本を物色する。購入した本をカフェでしばし読み、帰宅して続きを読む。大変幸せな毎日である。

年が改まって、書店の雑誌、新書コーナーには、早速大河ドラマの主人公である北条義時の文字が見える。新書で数冊、北条義時もしくは北条氏に関するものが平積みされている。日本史の中ではマイナーキャラであるが、大河となると早速このような扱いになるのが面白い。

大河に止まらず、コロナ、脱炭素、資本主義、LGBT、貧困問題、米中関係などの時事的なテーマで、専門家がまとまった分量の文章をいち早く出版するのは新書だ。

 

さてそのような新書の中から、この年末年始に読んだ新書は次の2冊。

大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書〔黄〕1977年
・内田義彦『読書と社会科学』岩波新書〔黄〕1985年

敢えて40年も前に出版された岩波新書黄版。

話題が新しいから新書と呼ばれるわけではない。とはいえ、扱うトピックは新しいものが多いし、それが新書の魅力である。
その一方で、岩波新書の場合、現行の新赤版ではない、青版や黄版の「古い新書」が根強く版を重ねている。

実は(特に最近)「新しい新書」よりも「古い新書」にとても心惹かれている。今回の2冊は70年代、80年代に刊行され、40年間、何十回も版を重ねながら今なお読み継がれているもの。

新書の読み方として、たとえば池上彰氏や齋藤孝氏といったベストセラー作家の読みやすい新書をどんどんこなしていくのも良いと思う。勉強になるのは確かだ。
ただ、ちょっと失礼な言い方になってしまうが、それは今必要な知識や教養であるのは間違いないのだけれども、数年、数十年経った時に改めてその知識をもとめて読み返すだろうか、と問われれば、どうだろう? 数年後、数十年後には、また別の知らないと恥をかくその時代の知識があるだろうし、別の作家が同類の新書を出しているような気もする。

岩波新書の旧赤版、青版、黄版はそれとは意味合いが違う。
書かれている知識は(勉強にはなるが)すでに古い。

が、なんというか、知識よりも、先人の熱量や、メッセージのようなものがひしひしと感じられる。スゴイ先生に出会ったような、学生時代に戻った心持ちになる。

例えば、内田義彦の以下のようなヒューマニズムはすごい。

いま問われているのは人間の知恵です。そして、いま求められているのは、人間の知恵を真に知恵たらしめるに足る有効な学問の創造です。なかでも、人類の経験すべてを汲みあげ目的に向かって動員しうる知恵才覚と技術をーー天才者だけにではなく、われわれ、並の人間にも努力するかぎり修得可能な形でーー与えてくれる真の経験科学の創造をと、経験科学に携わる一人としては、つけ加えましょう。誇らかな自負の念からではなく、責任として。(p.98)

大家と呼ばれる人のひたむきな姿勢は心を打つ。先人はこうやって一生懸命学問に取り組み、自分の主義や思想を世の中に伝えようと努力して語っていたんだな、と。

「古い新書」で感銘を受けるのはこういうところなんじゃないか。

「古い新書」は今必要な知識を得るためというよりは、過去のすごい熱量を受け取り、学問や社会、人間に対する姿勢、ヒューマニズム、心構えといったことを学ぶために読む必要がある。逆にそれがない知識だけの本であれば、これだけ版を重ねる必要はない。

そういった淘汰を乗り越えてきたのだから、古典と呼ぶにふさわしい。

こういう本を読むのもいい。特に年末年始には。