KAJIYA BLOG

人文系大学教員の読書・民藝・エッセイブログ

カズオ・イシグロの言葉

カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したのは2017年のこと。すでに5年も前のことである。

今では日本中にこの作家のファンがいる。日本にルーツを持つということで、日本人ノーベル賞受賞者として大きな話題を呼んだ。ただ、私がこの作家のことを気にするようになったのは、受賞前のことである。

代表作『日の名残り』(1989)は有名だし、映画(1993)も観てはいた。『私を離さないで』(2005)は日本で舞台化もテレビドラマ化(2016)もされている。だが、これらの作品ではなく、実は2015年にNHKEテレで放送された『カズオ・イシグロ 文学白熱教室』*1という講演動画が、そのきっかけだった。

当時、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』が人気を博していた。一流の知性が、学術について学生と熱く語るというのが、一種の流行りになっていて、類似番組もいくつか放送されていた。
イシグロのそれも流行りに乗っかった企画だったのだろう。

知性ある人が、何かについて熱心に語っているのは、聞いていて胸を打つ。これからもこういった企画番組は作られていってほしいのだが、流行はどこにいってしまったのだろうか。

ところで、文学を学んだことのある人ならば、誰しも一度はこんな質問を投げかけられた経験があるだろう。

「文学を学んでどんな意味があるのか?」

文学自体、定義は時代によって異なるし、現在のような意味で用いられるようになってせいぜい200-300年程度しか経過していない。加えて、文学といってもさまざまな側面も、捉え方、立場もあり、上記の質問に咄嗟に答えるのは非常に難しい。

相手がどのような知識を持ち、どのような前提で問うているのかを探りながら、曖昧な回答をしてみたり、どうせ理解されないだろうからとお茶を濁してみたり。

意味があると思って勉強しているのは確かだが、実はこの一番基本的な質問が最も回答のやっかいな質問でもある。生きることや働くことに意味が見出せない人に、その意義や素晴らしさを納得してもらうことが恐ろしく難しいことであるように。

小説に代表されるような文学*2とは、それが高尚な文化であると感じられつつも、どこか現実離れしている空想の世界のように感じられている。小説が何か重要なメッセージを読者に送っているということはわかるが…。であれば、フィクションではなく現実に即して直接メッセージを伝えたほうがよくはないか? なぜ小説の形態で伝える必要があるのだろうか?

ところが、「文学白熱教室」におけるイシグロは、この手の質問に、自信たっぷりに、堂々と、そして明快に語っていた。その姿に感動を覚えたのである。

放送を見ながら私はとっさにカズオ・イシグロの言ったことを書き取った。

イシグロは次のように語った。

小説は「事実」ではない。つまり「虚構」である。だが、嘘ではない。嘘は人を欺くものだが、小説は人を欺くものではない。

人は「事実」を知るだけでは満足しない。西暦何年に戦争があった、というような「事実」を知るだけでは何かを理解したことにはならない。そこで人がどのような感情を抱いたのか、までを理解したいのだ。

小説は「事実」ではないことを描く。しかしその中に描かれる感情には、人間や社会の「真実」が描かれている。

小説を書き、小説を読むとは、感情を分かち合うということだ。

人間は社会で経済活動をするだけでは不十分なのだ。心情を分かち合う必要がある。

イシグロのこの確信に満ちた言葉はどうだろう。

人間は経済活動だけでは生きていけない。人間は感情を分かち合わなければ生きていけない存在だ。そのために小説は、文学はある。イシグロはそう説く。

経済成長の限界が指摘され、脱資本主義という検索ワードが急浮上し、未来の人間や社会のあり方が模索され議論されて久しいが、文学の立場から人間存在の根本に関わるこのような力強い言葉が発せられるとは。

たしかに、経済成長率やGDP、株価などを示す数値は社会の「事実」を示しているかもしれない。だが、そこに人々のどのような生活があるのか、人々が何を感じ、何を望んでいるのか、という人間社会の感情をそこから読み取ることは難しい。

文学は社会のその感情への理解という部分を担っている。そしてこれからの社会を考えるとき、経済や環境の心配をするのと同じ程度に、あるいはそれ以上に、人々の感情を考える必要があるのではないか。コロナの時代を経て、社会はむしろ今こそイシグロの言葉を理解し始めるのではないだろうか。

 

今はイシグロのいう小説を広く人文学の役割として私は受け取っている。

人々の感情を理解し、社会がどうあるべきかを考える学問としての人文学は、いわば人々の「感受性」や「共感」を問題にしている。

「文学を学んでどんな意味があるのか?」

という問いを発する人には、今なら、文学は人々や社会の感受性や共感の発展を考える学問で、それは人間社会に必要不可欠な学問なのだ、と答えるだろう。

7年も前に観たテレビ講演の一つの言葉をいまだにPCに保存して時々読み返している。イシグロの言葉は人文学を学ぶものの心に火を付ける、まさに「白熱」した言葉だ。

この言葉を読み返すたびに、少し心が熱を帯びる。週末、この言葉をまた読みかえしたのである。*3

公開:2022年1月23日

 

 

*1:DVDが発売されているので、今でも見ることができる。私の研究室にも所蔵しているので、見たい人はお越しください。

*2:「代表」と言ってしまったが、もちろん文学は小説に限定されるものではない。詩も戯曲もある。フィクションにも限定されない。ルポルタージュ、伝記、紀行文学、環境文学などノンフィクションに分類されるものもある。その上、こういったいわゆる文芸とされる分野にも限定されない歴史と定義の広がりを持つ。ただ、文学というと、何か小説のようなフィクションを読んでいるものと一般に思われてしまう。

*3:こういうことは、大体2〜3日おいて少し冷静になると、書きすぎたなと思うもの。数日したら少しトーンが抑え目に書き換えられているかもしれない。